新飯田小学校の「二宮金次郎 像」物語
いつ、どうして、そして なぜ セメントモルタルなのか ?)


いまや、数々の遊具や、手作りのフィールド・アスレチックの陰に隠れてしまいましたが、
遊具がなかったころは、この周りは遊び場の中心でした。

どんな経緯でここに建てられたのか、
また、建てられた当初は、「銅像」であったことを知る人も少なくなってしまいました。

あの忌まわしい戦争のことを語り継ぐうえにも、
このモルタル像のことを記録に残しておかなければなりません。

(「PTAだより」担当だったときに特集を組んだ記事です。枠内のみ)


 新飯田小学校の旧校門(西側)横に、子どもたちの遊ぶ姿をやさしく見つめている像があります。「二宮金次郎」像です。

 教養部は、建立の事情を知る人(今や2、3人?)がいらっしゃるうちに調査し、記録としてのこしておきたいと考えました。


 この像(当初は銅像)は、新飯田下中村の出身で、埼玉県川口市の小日向文静(ぶんせい)氏が寄贈されたものでした。

そのいきさつ

 昭和11年、川口市で大工をされていた文静氏が、甥である小日向秀夫氏(下中村・故人、当時小学1年)に、将来後継者になってくれるならば、ふるさと新飯田の子どもたちのために、銅像を寄贈しようと約束されました。

 昭和11年6月、銅像は完成し、村長はじめ諸団体の来賓、それに全校生徒と教職員が整列して盛大に除幕式がおこなわれました。

 その時、校長先生は、
「いままで新飯田の学校にだけ銅像がなかったけれども、今日からは尊徳先生が見守ってくださいます。登下校の際には、あいさつを心がけましょう」と述べられたと、当時小学生だった方が、作文に書き残されています。


 なお、台座の寄贈者は、「圓岡静子」とありますが、亡くなった長女の名を遺したいという文静氏の親心からと聞きました。



あの戦争が…

 
銅像は、約束どおり建立されましたが、思いもかけない戦争がすべてを狂わせました。兄の戦死によって「もしかアンニャ」(※)になってしまった二男の秀夫氏は、約束を果たすことができなくなってしまいました。

 さらに、「銅像」も悲惨な運命を遂げます。文静氏が亡くなられた後、昭和17年に寺の釣鐘などとともに、戦争に供出させられてしまいました。

 子どもたちを励ましたいという崇高な願いがこめられた銅像が、戦争の砲弾に変わっていく光景を見ずにすんだのは、むしろ文静氏の「不幸中の幸い」だったかもしれません。


 現存する金次郎像は、その後、台座だけでは痛ましいというので、セメントで再建されたものです。
 白根市内には、新飯田小のほか、白根小、臼井小、根岸小の計四校にあります。
                   
                        【取材・教養部】


【二宮金次郎】(本来は金治郎)は、200年前、小田原市の農家に生まれ、幼少時に生家は没落、両親とも死別して、つらい日々を過ごさなければなりませんでした。薪を背負い、本を手にした少年金次郎のイメージはそのころのものです。
 ひたすら勤勉と倹約に努め、小田原藩や、桜町領を建てなおし、荒れ地の復興、村づくり、人づくりに力を注ぎました。

 全国の銅像の大多数が、昭和6年から10年代に、民間の有志の寄付によって建立されたといいます。



余 話

◆等運寺の釣鐘や喚鐘
(かんしょう)も、この時に供出させられました。

 近くのお寺で、お寺の大きな「釣鐘」はごまかしようがないものの、火の見やぐらの「半鐘」は供出を免れるというので、せめて小さな「喚鐘」だけは護ろうと、村人たちが知恵をはたらかせ、こっそりと寺の喚鐘と、火の見やぐらの半鐘を取り替えたそうです。
 あわれ村の半鐘は、海の藻屑と消えましたが、村人たちの知恵で、お寺の喚鐘は戦争に行かずにすみました、…とさ。(メデタシ、メデタシ!)
 
 このお寺のご住職から、こんなお話を聞いて感動して、
「それじゃあ、さっき鳴った喚鐘がそれなんですね」と聞いたら、
「イヤー、ところがですね、戦後、火の見やぐらに残った寺の喚鐘が、村の安全という面で貴重な役割を担っているんで、なかなか戻ってこなかったんですよ。仕方がないから、新しい喚鐘を買いました」とおっしゃった。
 村の方々もすごかった、このご住職もいいですね。

◆どこかの集積場で、釣鐘が山積みにされている戦後の写真を見たことがあります。一部は返却されたでしょうが、かなりの供出品が横流しされ、朝鮮戦争かなんかで大もうけした人がいたのでしょう。(釣鐘返せ〜!)
 勝っても儲け、負けても儲ける。いつの時代にもそんな人がいるんですね。もっとも、戦争の本質は、「経済戦争」ですから。

◆門徒さんのお内仏に、磁器製の燭台、花瓶
(かひん)や仏器をつかっているところが、たまにあります。それは、真鍮製の仏具を戦争のためにもっていかれた「代用品」ですよね。 仏具どころか、磁器製のフライパンやアイロンも使っていたなんて話も聞きます。
 「花瓶が古くなったんで、あたらしいの、買いましたワー」
 「おっ、ようやくそんなところに気持ちが向くようになったか」
 と思って、お内仏を見れば、蓮華が鮮やかに描かれた白磁の花瓶。聞いてくれればよかったのに…。


◆釣鐘といえば、友人の寺で、釣鐘がない鐘楼があった。石組みの基礎に、威風堂々のケヤキづくりだ。
 ところがその友人、6、7年前に釣鐘を買おうと思うと言い出した。
 「悪いことは言わない、それはやめたほうがいい」
 「どうして?」
 「考えてもみろよ。鐘があるばかりに、毎朝撞かなければならないという義務が生ずるし、撞かなければ住職の寝坊がバレるし、第一、またお寺の寄付かと陰口を言われないだけでも、むしろ、鐘がないほうが世の中平和だぜ!」
 「そうか…。でも、釣鐘がない鐘楼はみっともないじゃないか」
 「そんなら、ちょうどいい。ウチの鐘楼が傾いて困ってたところだ。安く買ってやろう。ナニ心配するな、移築料は出せと言わないから」
 「エッ、…やっぱり、買う!」
 作戦は見事に失敗。
 
 でも、平和ボケした日本で、煩悩を祓うつもりで年に一回撞かれるだけの釣鐘があるよりも、『この寺には、こういう……事情で釣鐘がありません。戦争の悲惨さを語り伝え、二度と戦争をしないという決意を忘れないためにも、世界が平和になるまで釣鐘を下げません』とカンバン出しておいたほうが、存在感があると思うけど。

 彼の寺、毎日撞いているんだろうか? 小須戸の鐘は遠くて聞こえない。
ちなみに当寺の毎朝の鐘は、先々代から年寄りの仕事となっている。隠すまでもなく、住職が寝坊なのは、この地では知れわたっている。

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