新飯田の歴史年表


   年  代        新飯田の出来事         等運寺 関係
 文禄年間
 (1592年〜)

【上杉領時代
  領主:須田城・須田大炊之助

  代官:茨曽根城・神子田長門守

○文禄検地
太閤検地とも云う)増田右エ門尉が検地奉行となる。
  記録・鵜原そね(茨曽根)
97173
     新田村578 ・鵜森28362

 
 慶長年間
 (1596年〜)
○慶長16年領主:溝口伊豆守善勝新発田城・初代藩主秀勝の次男で沢海1万1千石)
○後世の千野家の(新飯田 町庄屋)の系図書によると、勘次郎為悦『鵜森村より新田(むら)へ移り住むとあるので、この頃はまだ新田村であり、鵜原そね(茨曽根)の新田村であった。
「寺屋敷」(古町の地名)について
  「屋敷」という地名は、室町時代年貢賦課の単位であった。寺屋敷の名の変遷は、鎌倉時代以前は「垣の内」、戦国時代には「堀の内」といい室町以降を「寺屋敷」と称していた。当時、寺を中心に相当数の住民が群居していたと推測される。

○1608年(慶長13)、「等運寺」了順 開基する

 正保年間
 (1644年〜)
正保2年「越後絵図」が作成される。幕府が全国の諸大名に命じ国絵図を作成させ、石高を報告させた。

新飯田村(初見)
160石余上新田は「鵜森新」となっている。
丸山氏(武田家の旧家臣、 一族と共に新飯田に来住した土着の豪族・館在住)の招きにより信濃国池田から小吉の円明寺にいた住職 善空が隠居し、再び丸山氏の招きにによって二男(全空)を伴い、新飯田 等運寺第5世住職に就任する。(後継者不在か?)

○このころ沢海領2代目領主 溝口土佐守から2反4畝の寺領田の寄進があり、堂宇改築の準備にはいる
延宝年間
(1673年〜)
  5年2月等運寺6世全空 庫裏を建立
○同年2月15日、等運寺」の寺号許可(これ以前は、小吉 円明寺に対し、通称 新飯田円明寺と名のっていたものと思われる)
木造本尊許可される。
天和年間
(1681年〜)

○上新田検地石高44石、戸数15戸、人数116人(天和検地 新発田図書館)
天和3年11月、神明宮を改築する(本殿 棟札あり)

元禄年間
(1688年〜)
○「福田川」次第に堆積する
宝永年間
(1704年〜)
洪水のため、丸山源太左エ門(館)脇の堤が切れる
○千野杢兵衛「円通庵」を建立す
○徳川幕府の政策により、等運寺「過去帳」記載を始める(すべて現存している)
正徳年間
(1711年〜)
  ○5年、本堂を改築(八間四面・2代目の本堂?)。棟梁は出雲崎の大工八郎左衛門、ならびに小黒与次兵衛(等運寺棟札、出雲崎町史)。昭和61年(1986)改築するまで271年間、度重なる洪水に耐えた
享保年間
(1716年〜)
検地記録千野家文書)
 村:面積159町6反3畝1歩3尺
   石高518石2斗8升8合3勺
      (当時 村高354石)
 町:面積10町3反5畝12歩
   石高 8石5斗6升
元文年間
(1736年〜)
2年、「中の口川」の改修工事完工し、領主(新発田藩)よりほうびとして「凧」を拝領。
宝暦年間
(1751年〜)
新飯田村に「六齋市」(市場)がひらかれる。六齋市とは、月に6回開かれる市場のことで、5の日と10の日に定められた
安永年間
(1772年〜)
○7年、丸山源太左エ門(館)脇の堤が切れる
天明年間
(1781年〜)
○4年、町うら堤切れる
観音堂を「神明宮杜」より「円通庵」横に移す
寛政年間
(1789年〜)
6年、「神明宮」拝殿改築(千野多仲)寄進 大工 島村 善助、藤沢忠四郎、若林徳三郎、小林与作
文化年間
(1804年〜)
4年、太郎右エ門浦、堤切れる
○このころ「円通庵」の僧 有願、子弟を教育する
狩野派絵師 法橋玉元、千野家に滞在
梨の栽培が盛んになる
○吉上 西方寿山「寺子屋」を開き、庭訓往来、商売往来を教える
583日、有願往生(73才)
文政年間
(1818年〜)
6年新飯田村侠客「館の惣七」が、新潟白山浦の川船の中で木山治六に殺害される
9年、惣七の子 年藏が、水原 本所千間原で親の仇 木山治六を討ちとる
11年、三條の大地震三条東別院倒壊。この頃「福田川」の地盤が隆起し、水上交通「水桶」が不能になる
天保年間
(1830年〜)
5年1月、飢饉のため困窮者に粥手当が支給された。(横山家文書)
○7年、太郎左門 浦 堤切れる
○11年、「円通庵」敷地に「観音堂」を建てる。大工 若林仙藏島村善助(千野家文書)
○8年12月8日、飢饉のため、困窮者に社倉米の配給(渡辺家文書)
安政年間
(1854年〜)
2年、「神明宮」上棟(本殿 棟札に記録あり)
6年、「アメリカ船」一艘、新潟沖に停泊(千野家文書)
梨の栽培が盛んになり、桃樹を伐採する者もあらわれる。但し黒星病 褐班病が慢延して被害甚大
文久年間
(1861年〜)
元年、「円通庵」焼失
○同年、「観音堂」再建
3年、新潟沖に「米軍艦」数艘あらわれ、長岡藩の船6艘と兵卒が中の口川を下る。(千野家文書) 
明治年間
(1868〜)
○6年10月、 第6大学区第7中学区第四小学区 新飯田校が円通庵に創立。
○9年7月1日、新飯田郵便局ができる。
○11年9月、新校舎が完成
○9年2月、茨曽根校第一分教場が等運寺にできる。この間「円通庵」にあった学校は「私学校」として運営された
大正年間
(1912〜)
○6年7月19日、新飯田 横町,、中町に大火。
○13年、大河津分水完工。
昭和年間
(1926〜)
○8年、新潟電鉄開通「新飯田駅」できる。
○11年、新飯田橋完成。
○22年5月15日、新飯田村立 新飯田中学校創立。
○30年3月31日、白根町と合併。
○34年6月1日、白根市になる。