新飯田(にいだ)の歴史

加茂市史編纂 編集委員

千 野 金 太 郎

【「新飯田村」地名の起源諸説 】

 諸説あって定かではないが、古くからの村名でないことは信濃川の変遷から見てもうなづける。

@、物部氏が越後の穀物を弥彦神社に献上した「贄田」(にいだ)と云う説

A、南北朝の頃、戦いに敗れた南朝の臣・新田氏の一族が此の地に逃れ、新飯田と改姓し土着したとする説

B、頼朝の追討をのがれ、奥州へ下る義経主従が、この地で新米の御飯をいただいたという(?)故事から。

C、戦国時代、上杉氏の新田開発によって生まれた村。江戸時代の新田と区別するため信州から土着した豪族・丸山氏(館)が、故郷の信州・飯田の「飯」を、洪水に収穫を見ない稲作の豊かな稔りを祈念して、「新田村」に「飯」の字を挟み「新飯田」とした。

 ※ 正保2年「越後絵図」に 新飯田の地名が出る。


【 序 】

 新飯田の歴史は、従来部分的には好事家や「中蒲原郡誌」に見る程度で、特に村史を体系づけたものはない。

 新飯田は、その昔「弥彦の荘」に属し、信濃川、中之口川の二大河の氾濫原の中央の最もひどい低湿地帯にあったため、人が住みついたのも遅く、鎌倉時代の終わり頃である。

 白根郷、島頭 新飯田の開拓の歴史は、上杉領時代から始まる。その概略は「越佐資料」「越後野志」などに詳記されているが、新発田藩 溝口氏支藩 沢海藩時代、出雲崎代官支配時代、小浜氏知行所時代、明治時代の記録は少ない。

 新飯田の歴史を 日本の歴史の流れの中に体系づけ、さらに将来の研究のたたき台にと、領主や村役人、その他 村の成因に関係ある事柄は、事の細大にかかわらず出来得る限りのせた。

 しかし 村の歴史に深い由緒をもつ旧家が、没落、転住、廃絶したり、更に戦後の社会的・経済的動乱期にあい、貴重な文化財が破壊・散乱しておったため、集録にはひとかたならぬ困難があった。

【 上杉領時代 】

 延元年中、上杉朝房が越後の守護となり、次いで興国5年、上杉憲顕・上杉房能と継ぐ。永正3年(1506)長尾爲景は、上杉房能を殺し定実を迎えて、春日山城に入り越後を治めた。

 天文20年(1551)山内憲政は、北條氏康に攻められ、越後に逃がれ長尾輝虎(謙信)を頼ったので、永禄4年 謙信は北條氏の居城「小田原城」を攻め、次いで武田氏としばしば「川中嶋」で鉾を交えた。同文禄4年(1595)豊臣秀吉は全国を検地した。当地、新飯田は増田右衛門尉が検地奉行として出役、検地を行っている。新飯田(当時、村名は新田村)は、石高578石7斗8升と「文禄検地帳」(新発田市立図書館蔵溝口家文書)に記録されている。

 慶長3年(1598)秀吉は景勝を会津120万石に移封する。この間を上杉領時代という。

【 溝口氏支藩、沢海藩時代 】

 天正9年、溝口秀勝 若狭国高浜5千石を領す。同11年、秀勝 加賀国大聖寺4万4千石に転封され、再び慶長3年3月、秀勝は越後国新発田6万石に封ぜられた。

 初代秀勝は、徳川家康の命によって直江山城主による「上杉遺民一揆」(越後一揆とも云う)を平定した。その後、更に領内鎮撫と稱し、兵を動かして墾田、治水に積極的に取り組み「重農主義」を創業の大方針とした。

 秀勝の次男 善勝伊豆守政一は、父秀勝の遺命により、慶長16年、沢海1万1千石に封じられた。その子、政勝、孫の政胤、曾孫、金十郎とついだが、金十郎が若死し、あとつぎがいなかったので 近江国水口藩主 加藤明友の二男、妥女(うねめ)を養子に迎えて後嗣とした。天和3年、遺領を受け継いで帯刀政有と名のった。

 政有は、忠臣 神田与兵衛の死後、寵臣 佐川佐内らの悪臣にそそのかされて、藩政を誤り、領民の生活は困窮し、心ある中心の主家を離反する者は、あとを絶たなかった。遂に幕府は貞享4年8月25日、領地を没収して、幕府の直轄(天領)とし、出雲崎代官所支配としたので、沢海城は廃墟と化した。


【 出雲崎代官所 支配時代 】

 貞享4年、新発田藩の支藩、沢海藩主 溝口帯刀政有の乱心のため、除封された。幕府は、その領地 1万4千石を没収し、出雲崎代官 竹内惣左エ門支配させた。

 設楽(しがらき)孫兵衛、馬場新右エ門、長谷川庄兵衛、鈴木八右エ門と代官が交替する。元禄元年に、支配所 沢海に出雲崎代官所の出張所「沢海陣屋」を置いた。しかし、旗本 小浜孫三郎が摂津国から沢海6千石と知行所替えになる宝永4年には代官所支配が廃止された。

【 小浜氏 知行所時代 】

 知行所とは、江戸時代 万石以下の武士が受けた土地の徳称である。宝永4年3月、小浜孫三郎行隆が、摂津国から沢海6千石に国替えになり、旗本 小浜氏の知行所となる。健次郎、長五郎、盛之助 (明治〜豊吉)と幕末まで続く。この時代が知行所時代である。

 小浜氏は 旗本4千石(盛之助時代)という小禄で、財政的には貧弱であったかしらないが、代々の領主は民政に意を用いることなく、治水工事能力は全く無能にひとしかった。毎年3月の雪どけ水は、水かさを増し、「中之口川」は、年中行事のように新飯田を破堤し、白根郷を水浸しにした。洪水の堤切れは、人命を奪い 田畑を流し地獄絵図におし包んだ。

 この悲惨のどん底からはいあがったのが、本村の「果樹栽培」の歴史である。
 ・「梨」栽培  万治年間(1658)「田方小前拾出帳」(大野家文書)
 ・「桃」栽培  文化、文政期が最盛、諸記録が残されている。

 超えて慶応4年(1868)は、幕末と維新との過渡期を大きく■した。

戊辰戦争の戦火は、人心を動揺させ、不安のうちに、北越の各地に拡大していった。

 4月、奥羽征討軍が北越に前進するや、長岡藩主 牧野忠訓は、河合継之助を軍務総督に任じて西軍にそなえた。

 奥羽諸藩の同盟軍に加わった長岡藩は、転戦して榎峠で抗戦したが、長岡城は遂に陥落し、継之助は8月、右足膝下の骨折銃創が悪化し、破傷風になり、会津塩沢の民家で亡くなった。

【 明治時代 】

 慶応4年8月、 政府は幕府の直轄領及び官軍に抵抗した諸藩の地に「民政局」を置いて治めさせた。

 同月13日、 新飯田は越後府三條民政局の支配となり、9月 明治元年と改元された。同2年4月16日、加茂町に加茂民政局がおかれ、新飯田は加茂民政局の支配に入る。

 6月、政府は諸藩の請を入れて、旧藩主を藩知事に任じ、府・県にかわって藩内の政務を掌らしめた。

 8月、越後府は水原県となり、10月民政局は廃止された。新飯田は、同月15日、越後府水原県の管轄となった。同3年6月 新飯田藩は再興され、10月17日、新飯田は新発田藩の所管となり、5年7月18日新潟県の管轄と変り、第19大区小4区に所属した。その後9年、大区制の変更によって第18区小4区に所属した。12年1月、大・小区制が廃止され、郡制がしかれ、各町村に戸長がおかれた。

    御用掛 千野藏多、丸山昇平、深井寅藏

    戸 長 千野藏多、関根彦四郎、深井寅藏、小林勘十郎、斉藤信一と
         相継ぎ、自宅を役場にあてた。

 17年、役場区域の変革により、新飯田村と茨曽根村の両大字を一区域とし、茨曽根の関根恭三、五十嵐田平、小池新三郎が戸長になる。

 22年、市町村制の施工によって、新飯田町と新飯田村が合併して、新飯田村となる。

 初代村長 齋藤源吾、  2代 小林幸太郎、  3代 大野金一郎、
     4代 齋藤源吾、  5代 大野金一郎、  6代 竹内清太、
      7代 大野 茂、  8代 竹内清太、   9代 小林勘治、
     10代 大野丁五、  11代 小林徳治 ――合併となる―――

 以上 幾多の行政の変遷があり「明治天皇の北越巡幸」を始めとして、諸制度、なかんづく、郵政、警察、金融、商工業、鉄道、文化と、めまぐるしく発展して行く。

 この歴史年表は、簡潔に史実を記したに過ぎないので、充分意をつくしてはいない。ただ、ここに祖先の精神的活動の生成発展の後を回顧しながら、祖先の偉業を通して、新飯田の歴史のなかに脈々として流れている偉大な伝統の力を把握して 歴史の中に生きる「島頭 新飯田」の自覚と抱負を喚びおこしていただけるならば、これに過ぎたるよろこびはない。