読者への「無理やり 投稿依頼」



  両堂御修復 完了奉告法要 に参拝 】  2016.11
 
         39  新飯田 砂原  杉之間 貞子 さ ん


 11月20日から2泊3日で、初めて真宗本廟に参拝することができました。東本願寺は修学旅行と新婚旅行の際に車窓から見ただけでした。

 三条別院の団体参拝募集に思い切って申し込んだきっかけは、60代後半になり、父の33回忌が間近になって母が元気でいてくれる今しかないと思ったことでした。三条教区で40人の募集でしたから、知らない人ばかりと思っていましたが、等運寺さんから9人の参加があって、観光バスに乗車してすぐに他の方とも会話がはずみました。

 初日の午後と、2日目の午前に本廟に参拝いたしました。世界最大の木造建築にほどこされた真新しい金箔と金具、その荘厳な御影堂の約1000畳を埋め尽くす超満席の参拝者にあらためて感動いたしました。

 同行された藤波駐在教導さんに東本願寺の諸殿を案内していただきました。薄暮のお庭からライトアップされた京都タワーが見えて、京都タワーが「本願寺さんのローソク」といわれる所以がわかりました。夜には逆に、京都タワーから京都のすばらしい夜景を眺めました。

 同行された方から「これを機会にお寺にお参りしませんか」とお誘いを受けました。心を入れ替えてお参りさせていただこうと思います。
 気持ちよく送り出してくれた高齢の母と家族に感謝しています。





  ばあちゃんの遺産 】  2016.7
 
       
  38  あゆみの会  三条市  山田恵美子 さ ん


 お念仏、私のお念仏はどこからやって来たのだろうか。
 小さい頃、「にょれさま(如来さま)に、こうやって手てを合わせて、なんまんだぶ、なんまんだぶ言うんだろ」と、ばあちゃんに言われていたことを思い出す。

 大人になり、お寺様の行事の時など、本堂では一丁前に格好だけ手を合せている。そして法話を聞く。そこで「大きな声で念仏申しましょう」と講師に促され「なんまんだぶ、なんまんだぶ」とやっと周りの人にまぎれるように称える。が、普段はなかなか念仏が出て来ない。

 通夜、葬儀、法事、家のお内仏でも合掌は一丁前、でもお念仏は出て来ない。
 以前、住職から聞いたことがある「老人は意味もわからずお念仏を称え若者は意味がわからないからお念仏を称えない」と、曽我量深という人が言われたそうだ。
 お念仏は、おまじないでもなければ呪文でもない。お念仏を称えたからといって、苦しみが無くなり、幸せになれるということではないと真宗ではいわれる。
 大事な人が亡くなった時は、誰に言われるでもなく、意味などわからなくても、手が合い念仏が出る。

 亡くなった方から頂いたお念仏なのだろう。私のお念仏は、死んだばあちゃんが私に遺してくれた「仏法相続」なのかもしれない。




三条別院報恩講 お斎のお手伝い 】  2015.11
 
       
  37  あゆみの会  砂原  丸 山 照 子 さ ん
 


 三条別院報恩講のお斎(おとき)の手伝いをさせてもらうようになって3年目となりました。

 昨年まで中心になってこられた別院の職員の方が定年退職され、今年は長い経験者がいないという話だったのでとても心配していました。
 それで、事前にメンバーの顔合わせがありましたが、私は都合がつかなくて参加できませんでした。

 初日の11月4日(前日の下準備)、不安な気持ちで三条別院に行くと、初対面の若い方が2人、昨年も一緒だった方が1人「おはようございます」と笑顔で迎えてくださり不安はなくなりました。

 4日間で1300人分のお斎を、リーダー3人のチームワークの良さと、事前の段取りが行き届き、仕事もスムーズに出来てその合間に本堂にもお参りもさせてもらい、楽しく感謝の5日間でした。




  真宗本廟 御正忌報恩講に参拝 】 2015.11
 
         36  あゆみの会  下町  金 子 節 子 さ ん



   阿弥陀堂 特別公開

 この度、ご縁があり団体参拝(37名)に参加することが出来ました。
 当日は早朝より住職様より出発場所まで送っていただき感謝。バスの中では引率職員の紹介や、東本願寺に関するクイズが出されて、笑いあり、大笑いあり。全問正解が二人おられました。

 午後2時過ぎに結願逮夜にお参りして、御影堂正面の『見真』の額を見て、親鸞様が一層身近に感じ、かつ厳粛なきもちになりました。
 その後、三条別院ご輪番の案内で、桜下亭の丸山応挙の襖絵や、白書院、能舞台などを見学させてもらいました。
 翌日の結願日中は、約千畳敷きの御影堂が満員で、正面以外の三方向の後ろの席は、全員立っていらっしゃいました。
 今回の参加の目的でもあった御満座の坂東曲(ばんどうぶし)のお勤めに初めてあいました。後方でよく見えませんでしたが、非常にダイナミックな動きと声量が私たちにも伝わり、感激で涙が出そうになりました。

 五条坂で昼食の後、世界遺産にもなった西本願寺にも参拝しました。国宝の飛雲閣(秀吉が建立したとか)、唐門(別名・日暮門…ん、どこかで聞いたような)ほか、諸殿を見学させてもらいました。
 阿弥陀堂は12月でご修復が完了し、来年3月には御本尊還座式が行われるということです。

 両日とも好天に恵まれまた西本願寺にも参拝させてもらうことが出来ました。感謝いたします。
 初回の上山の時よりもこのたびは気持ちが楽になり、真宗門徒で本当に幸せでした。ありがとうございました。




  考えることを止めていませんか
 
         35  等運寺  当 院


 先月「私は安保法案に反対します」と示そうと、デモに参加した。特に準備もせず普段着で手ぶらだったので、一緒に行った方に「兵戈無用」と書いたプラカードを借りて掲げた。

 デモを終えてから声をかけられた。その私の姿を見た日蓮宗のお坊さんだそうだ。励ましの言葉をいただいて、最後に「反対しなきゃいかん公明党が反対しないから、君らにはもっと声を出してもらわないと。頑張ってください」と言われた。ん、何かおかしい。公明党と私に関係があったかな?あっ私を学会員と勘違いしたぞ。

 こういうことは日常でもよくある。パッと見て「こんなもんだろう」と瞬間的に決め込んでしまうことは。私たちは自分の気持ちを言葉でしか、相手に伝えられない。しかしそのままは伝わらない。勘違いされることも多い。細かいことまで気にするほど私たちは暇ではない。自分にとって優先度の低いことならなおさらだ。

 そうだからこそ、私は皆さんに問いたい。自分が分かった気になっていないか。自分が見落としていることはないかと。あるいはこう問うてもよい。感じ取ることを止めていないか、考え続けることを止めていないかと。

 今回の場合なら、法案の賛否の主張をするだけでなく、一人ひとりが様々な意見に耳を傾けることが大切であり、一人ひとりが考え続けることが大切であると私は思う。
 主張をぶつけ合うだけでは社会の分断にしかならない。


「兵戈無用」
『大無量寿経』に出てくる言葉で「武器も軍隊もいらない」という意味です。釈尊が悪を戒め信を勧められるところで語られます。この背景には「不殺生」(殺すなかれ)という釈尊の思想があります。




  わたしの御遠忌
    
いつでもどこでも御仏事
 
         34  あゆみの会    山 田 恵 美 子 さ ん


「あゆみの会」で本山へ行き、なんまんだぶ、なんまんだぶ。 なんまんだぶとはなんなんだ、と問いながら11年が経ちました。聞いても聞いても未だに解りません。聞くことは大変、でも聞くことは大事、そして聞くことの楽しさを知りました。

 本山の「おあさじ」が忘れられず、別院の「おあさじ」に通っています。そして「命日のつどい」が始まり、「定例法話」が始まり、そこに集う方々と共に「有志の会」を立上げ、「恩徳讃」のこころで毎月の清掃、毎年の報恩講のお手伝いしています。

 そしてこの度の「御遠忌」は、6日間本堂裏のお茶接待、お参りの方々のお茶接待。毎年の報恩講とは少し勝手が違い戸惑う事もありましたが、出仕されるご寺院方や掛役の方々の緊張などで、ピッと張り詰めた独特な後堂の空気を感じさせて頂いていると、疲れも眠気も吹っ飛び、6日間通う事が出来ました。

「有志の会」会員のお話です。
自分に雪駄係があたって、庭儀の時、玄関でご寺院方に雪駄を渡す簡単な仕事だと思っていた。係は4人、最初は、ふところで温めてさっと出したら格好いいねなんて冗談を言っていたけど、用意してある雪駄を見たら100足、それに大小とサイズがある。これは簡単な仕事ではないと思った。どうしたらスムーズに一人一人に気持ち良く履いてもらう事が出来るだろうかと考えた。
 最初はバタバタしたが、体型をみてサイズを選び、鼻緒を広げなんとか履いてもらう事が出来た。満点の仕事が出来たとは言えないが、とても楽しかった。今思うと、簡単な仕事なんてない、真剣に向き合うと結構深いもんだなと思った。
 次の御遠忌はバッチリとニコニコ顔、すかさず隣の会員に、今度は50年後だねと言われ、残念と大笑いをしました。

 簡単な仕事も無駄な仕事もないことを教えて頂きました。御遠忌が終わり、平常の「おあさじ」になりました。最初は「おあさじ」にお参りさせて頂いている私が居たのですが、いつの頃からか「おあさじ」を勤めさせて頂いてる私が居るように感じています。




  小説『親鸞」五木寛之の視座
 
         33  同朋会推進員      M さん


  熱心に寺に通い話を聞き、生活の中で手を合せ念仏申して来たお婆ちゃん、認知症が進み悩んでいる。手を合せ念仏申す事も忘れるこんな私はお浄土へ往けるのだろうかと。


 日報連載『親鸞』の最後に、
「私は若い頃、比叡山で学び、ひと一倍努力し、多くの知識を身につけた。しかし、法然上人は、愚者になりて往生す、といわれた。いったん智者の世界に身をひたした者が、その垢を洗い流し、愚に帰ることは容易なことではない。
 私が、多くの文章を書きしるしたのは、己の智をあらわすためではなかった。それらの知識を、残らず捨て去るためだったのかもしれぬ。しかし、それはできなかった。自力で愚に帰ろうといくらあがいても、無理なことなのだ。
 だが、いまの私は、おのずと愚に帰ろうとしているようだ。大事な経典の言葉が思いだせぬ。書名も、人名も、遠くにかすんでいるかのようだ。かつては目を閉じていても、ありありと流れるように目にうかんだ経文が、どうしてもでてこない。人はこれを年をとって耄碌したのだというだろう。しかし、それはちがうのではないかとおもう。
 私は今、自らの計らいではなく、他力の計らいによって自燃に愚にかえりつつあるのだよ。私はおのずと愚者への道をゆきつつある。なんという有難いことだろう。法然上人のいわれたように、私は確かに往生するのだ。それを思うと感謝の念で胸がいっぱいになる。そして南無阿弥陀仏、と自然につぶやいてしまうのだ」(抄出)

 と五木寛之さんは書かれている。さて…。

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      住職の 所感を一言

「自力を捨てて他力に帰す ??」
 自力を捨てようということも、捨てないということも、どちらも私の計らいであるから、結局自力の域を出ることはできないという魔のパラドックスに落ち込んでしまいます。

 ところが先日、第17・18組の住職研修会で、村山教二先生が、「昔の布教師は『自力を捨てて…』と言わず、『自力廃(すた)れて他力に帰す』と言ったものです」とお話しされました。

 う〜ん。何かブラックホールから抜け出たような、フリーズから解放されたような、キャッシュメモリーがクリーンアップされたような、湯上りで生ビールをぐいっとやったような…、 ひさしぶりに、肩が軽くなったような気分で研修会場を後にしました。(意味不明ですか ?)


【勝手な用語解説】
パラドックス(paradox)正しそうに見える前提と推論から、
            受け入れがたい結論が得られる事。つまり「矛盾」
ブラックホール(black hole)物質や光さえも引き込まれるような強い
            重力の天体。「完全お手上げ状態になる」
フリーズ (freeze) パソコンが異常停止する(凍るように止まる)こと。
           いわゆる「固まっちゃったよ」
キャッシュメモリー(cache memory)よく使うデータを一時置く記憶装置。
                 「私の散らかし放題の机の上のこと」
クリーンアップ(clean up)記憶装置内の不要なデータを消すこと。
             「物置のガラクタを捨てて身軽になること」
生ビール(draft beer) 日本のビールはほとんどが加熱処理されていない
            ので、実は「樽も缶もビンも生ビール」




  親鸞聖人と坂東曲に遇う
 
         32  小 日 向 史 子 さん
(加茂市 後須田)

  私は、昨年の750回御遠忌法要に参加することができませんでした。本山には以前から主人と2人で参拝したいと強く願っていました。
 私たち夫婦は、11月23日に30回目の結婚記念日(真珠婚)を無事迎えることができ、その記念に11月27日〜29日の『真宗本廟報恩講参拝団』(三条別院主催)に参加しました。 

 27日のお逮夜に参拝した後は自由時間でしたが、夜の観光はせずに、高倉会館の「親鸞聖人讃仰講演会」に行きました。満席で、特に若い学生さんたちが大勢参加していたのが印象的で、とてもたのもしく感じました。聞法の場に身を運ぶことの大切さを、子どもや孫に伝えていきたいと思います。
 28日の御満座、早朝5時前には、すでに大勢の人たちが開門を待っていました。6時30分の結願晨朝。そして、10時からの結願日中は、前後左右に体を動かして拍子をとりながらお勤めする『坂東曲』(ばんどうぶし)でした。
 真宗大谷派のみに伝えられていて、本山の報恩講の最終日のみに勤められるそうです。とても感動しました。

 その後、法話を聴聞し、本山にて「お斎」をいただきました。ほかに大谷祖廟、青蓮院。さらには長嶋温泉から名古屋別院も参拝して無事帰宅しました。今回のご縁をいただき、よき旅ができましたことを等運寺さまに感謝しています。



  兄の存在感
 
       31  松 本 昭 栄  さ ん
  (中国・山東理工大学 講師)

 はじめに、個人的なお話で恐縮至極に存じます。どうぞ、ご勘弁ください。
 さて、兄が亡くなってからこの12月で1年、長男である兄は、末っ子の私と21歳も違う兄弟です。
 昭和18年、私が生まれた直後、間もなく徴兵にとられ南国へ、そして終戦で戻って参りました。
 当時の我が家は10人家族、顔を洗う洗面器は一つ、毎朝の洗顔には先に起きた順に洗う習わしでした。

 ある日、兄の次に私が洗いました。見ていると鼻血がいっぱい出ています。母は、「軍隊に行って殴られたから鼻血がクセになった」と、兄の後ろから私につぶやきました。それでも兄は生涯、軍隊の悪口ひとつこぼさず仕事の愚痴等、怒った事も聞いたことのない辛抱人でした。
 就職列車も走ったり、1ドルが360円のこんな時代でした。卒業後、およそ1200人もの従業員がひしめく地元の東芝へ入社いたしました。
 こんな時期に、オートバイのホンダが、自転車にエンジンを付けた通称「自転車オートバイ」を新発売。大工の兄は、重い道具箱を運ぶためか、いち早くそのバイクを買いました。その1年ほど乗った貴重なバイクを、他の兄弟を差し置いて末っ子の私に黙って与えてくれました。新型のバイクが発売されたからであります。
 その結果、未成年者の私が東芝でバイク通勤第2号となる異例の贅沢となりました。若い私は舗装もない県道を飛ばし過ぎて、本体のパイプが折れてしまいました。ひどく叱られると思っておりましたが、それでも兄は黙ったままでした。
 この様に、兄は89歳の生涯をとじるまで、私を叱ったこともなく、静かなごく当たり前の兄だと思っておりました。

 そんな兄の臨終の1日前、危篤の電話をもらい病院へ駆けつけました。眼は閉じて酸素マスクの息づかいも粗く、時折切ないうなり声、何も施さなければ死んでしまいます。遠い親戚が来るまでと延命の薬を投与しての重苦しい集中治療室でした。 
 看護師さんが帰った後で、兄の末娘が「お父さん! ショウエイさんだよ。ショウエイさんがきたよ! わかるけぇ」と二度ほど叫びました。
 奇跡とも云える返事です。「わかるこてや、兄弟らねっか」と、力強く聞こえました。モウロウとした死の直前、最後の言葉はわたしにとって重い重いことばとなりました。
 この無意識の中から発した一言は本能なのでしょうか? いや、弟想いが頭に焼き付いていたからであります。

 それから1年、兄の死をきっかけに等運寺さまとお話しする機会が多く、檀家でもない私に住職の粋な計らいは大変です。「新盆」はもちろん、「報恩講」や原稿依頼までもお声掛けくださいます。
 こんな等運寺さまの影響で「浄土真宗」に興味を持ちました。親鸞聖人に興味を持ちました。「正信偈」に興味を持ちました。そして報恩講で学びました。同じ親から生まれ出て、同じ釜の飯を食いながら歩んだ兄弟、その出会いは当たり前だと思っておりましたが、奇跡のそのまた奇跡と教わりました。

 出兵の日、産後の母と兄はお互い胸が裂ける程の思いで別れたはずです。そこに寝ていた乳飲み子に何と告げて別れたのでしょう。 
 振り返りますと、胃がんと闘いながらも弱みを吐かず、何も怒らず、「わかるこてや、兄弟らねっか」のとおり、慈しみの心を貫いた兄でした。その存在感に、68歳の涙がこぼれてなりません。

   
※「兄」とは、故 横山喜三郎(新町)さんのことです



  宗祖親鸞聖人750回
  御正当報恩講団体参拝団に参加して

 
         30  小 林   大 さん
(新飯田 砂原)

 この度(11月27日〜29日2泊3日)、三条別院御正当団体参拝壇(総勢43名)の一員として参加した。27日は法要、13時からの参堂列・結願逮夜参拝に合わせる為、早朝5時30分集合出発であった。
 5月に「750回御遠忌法要」でバスの旅は経験済みでも、さすがに堪えた。(朝、昼とも車中食)
(道中は各方面(組)からの参加者の自己紹介等あり) お陰様で参堂列にも間に合い、しかも引率スタッフの見事な気配りで、最高の席で法要に参拝し、大西賢氏(大垣教区)の法話も聞くことが出来た。

 28日は、6時30分からの結願晨朝、結願日中(坂東曲)の場所取りで、5時開門に合わせ、旅館を4時45分出発。ここも引率スタッフの配慮で、最前列の最高席がとれた。 真宗門徒にとっては一年でもっとも大切で中心となる報恩講、その御正当の法座に連なることが出来、感動。
 特に10時からの結願日中(御満座)に「坂東曲」を初めて目の当たりに出来、また感激。

※「坂東曲」は、声明の由来につい て詳細は明らかではないが、一説 には鎌倉時代から南北朝時代、第 3代覚如上人の頃に勤められた関 東の同行による勤行が始まりとも 伝えられる。
  念仏と和讃を繰り返し、体を力 強く前後左右に動かして拍子をと りながら勤めるもので、大変ダイ ナミックな声明であり、今では大 谷派のみに伝えられているとか。

 好天に恵まれて、全国各地からの団体も多く、当日は約2万人の参詣者があったらしい。
 昼食は京都市内で済ませ、2時30分御修復なった大谷祖廟に参拝。こちらも大勢の参拝者であった。

 29日は、8時に出発し、来年1月からの阿弥陀堂修復の着工に先立ち、御本尊・阿弥陀如来を仮阿弥陀堂(御影堂九字之間)に御動座する「御本尊動座式」(10時〜12時40分)に参拝。
 50年毎の御遠忌とはまた違い、この動座式に巡り会えたことは、最高に運が良かったと思った。4年後の還座式にも参加したいと思っている。

 この旅は、スケジュール的にはハードな面もあったが、自分の人生の中では大変有意義で貴重な旅だったと思った。
 三日間一緒だった43名の参加者も気持ちは同じだったと思う。ありがとうございました。



  仏さまと インターネット ・・・今度は四十九日の日に投稿依頼                 
 
            29  松 本 昭 栄 さん
 そのA (田上町)

 せがれが生意気盛りの20歳半ばの頃、私が何か注意をしたときの事でした。「なぜ俺を産んだ、産まなければ良かったのに」、こんな言い訳が返ってきました。
 その後、何も言わなくなったせがれですが、私はズッとこの良い返事はないものかと想い続けておりました。

 やがて、10年も経った昨年、等運寺様の掲示物に「生は偶然、死は必然」と書いてありました。なるほど生まれる事は偶然かと、単純にうなづいて、これに関連する様々な話をインターネットで調べてみました。
 何と、不思議なものですね、近くの新潟県高田のお生まれで「金子大榮師」と分かりました。こうして全く分からない人でも直ぐに探し出してくれるのがいんたーねっと、便利なものですね。

 今度は、東本願寺(真宗本廟)を開きました。地図で場所や駐車場等々検索しているうちに行きたくなってしまいました。
 等運寺様に、メールして駐車場等、要点をお尋ね致しました。お忙しいご住職ですが、直ぐにメールでお返事を下さいました。
 私は、早速カーナビをセットして出発です。もちろん迷うことなく一発で着きました。大きな木造建築に胸ふくらませ門を潜りました。看板には「日本一大きい……」と書いてありました。一部修繕中でしたが、圧倒される程の大きさと、驚くほどの建築技術です。いにしえの栄華の証と感心しながら参拝コースを「御影堂」「阿弥陀堂」と拝みながら進みます。

 やがてギャラリーに差し掛かりました。なんと、インターネットで調べた金子大榮師の「喜びが出てくれば悲しみが無くなるという様なものではない」、こんな掲示物に心を打たれてしまいました。
 家に帰ってまた、インターネットで、仏さまの諸々を検索いたしましたら、今度は「盲亀浮木」という言葉が出てまいりました。感動して深く検索すると、せがれの云った「どうして産んだ」の答えが解る様な気がいたしました。
 先日、法要の席でご住職に「盲亀浮木」の話をお尋ねした処、すっくと席を立ち『報恩5月号』を持ってこられました。もう半年前には、そのことが書いてあったので御座います。さすがだと感心させられました。

 この様に、仏さまやご住職と私のインターネットが繋がる時代に喜びを感じます。お金さえ出せば何でも手に入る時代ですが、仏さまの教えは己の心次第。
 便利なインターネットを活用して、より多くのものを調べ、より多くの人の話と出逢いを心掛けようと存じます。

         


  等運寺の宝物
 
         28  釈 量信  たべ けんじ さん
(新潟市南区鷲巻)

 私が等運寺本堂でそれを見つけたのは、偶然だった。友人に誘われ初めて法中講のお参りに参加した時の事だった。
 それまでは中之口の土手から降りる為の目印になっている一風変わった道路標識「笹の生えている一時停止の標識」からおりると、そこにあるお寺という認識しかなかった。

 そのお宝を毎週品定めをして、いくつか持ち去っていたのだが、先日背後に人の気配を感じて振り返ると、ご住職が立っていた。何か胸騒ぎがしたが、その予感は的中した。
「寺報に原稿をたのむ」
 毎週、本堂から真宗と仏教の本を借りていた私には原稿依頼を断る理由がなかったのだ。
 私はここの本堂にあるミニ図書コーナーはすごい蔵書量だと思う。新潟駅の近くに最近ジュンク堂(昔でいえば北光社か萬松堂みたいな)ができたが、そこにある真宗コーナーより蔵書は多い感じがする。少なくとも漫画部門は絶対こちらの勝ちだ。
 私は今のところ漫画の書籍しか借りていないのだが、活字タイプのものも例えば最近御遠忌にちなんで出版された最新版をはじめかなり豊富なラインナップである。 しかし貸し出しノートを見ると、これまで借りていたご門徒は読破されたのか、最近貸し出しがない。つまり私がひとりじめ状態!・・・なので、この原稿は書きたくなかったのである。

 最近はマンガ化の波が仏教書にも押し寄せ、手軽にしかも良く書かれているものが増えたようである。これを機会に仏教や真宗に興味を持ってくれる人が増えればよいと思っていた。 ただ残念なのは、街の図書館はそんなに置いてくれないのである。特に私のごひいきの「ひろさちや仏教コミックス全108巻+α」などは。
 あぁ……、こんな事書いたら、貸し出し中の本が増えてしまうかもしれない。実に残念である。
          
(タダでは貸しません!…住)



  本 物 と 偽 物 】 ・・・・葬儀の日に投稿を依頼しました
 
            27  松 本 昭 栄 さん
 (田上町)

 初めに、紙面有効利用のため、敬語を省略させていただきます。
 昨年の12月、兄の葬儀に「■蛄春秋を識らず、伊虫あに朱陽の節を知らんや」を題材にしての法話があった。
「夏に生まれ、夏しか知らないセミが、どうして夏を夏として認識できるのか」。
「自分が知りうる世界の中だけで、自己中心に物事を判断して、それを本物と思い込んでいる。だから「迷いの世界」を生きていながら、そのことに気づかないし、自分の目で、自分をどれだけ見ようとも、自分の『まよい』に気づくことは難しい」。こんな内容だと思いました。
 我が家は、「道元禅師、永平寺」でおなじみの「禅宗」であるので少し違っていた。そんな事で浄土真宗の法話は何回か聞いたが、右から聞いて左から出ていく始末。

 だがこの度は聴く人と聴かせる人とのわけ隔てない雰囲気の中に聴いたせいか、左から出て行かなかった。
 我が聖職の「生産技術」に当てはめると、物つくりの基本や目的が分からず、一部分だけ知ったとしても解った事にはならない理論にピッタリだ。
 最近の世界情勢も、不況と債務超過で資本主義が崩壊するのではとの推測もある。

 地球の磁場が弱まって地殻活動が活発化して、地震や異常気象で災害も多いと云う説もまんざらでもない。更には、原発事故なども常に情報を隠そうとする。目先の票と党利党略を最優先する政治家では頼りになるまい。 更には、五千年前のマヤ文明によると「2012年人類滅亡説」も昨今話題になっている。

 これら、人間では本物と偽物の区別をつけるのは難しい。
私は何回か法話を聴いているうちに感じた。仏様は、おすがりやお願するものでも道具でもない、仏法は知識として学ぶものでもなく、聴くことによって自分の生き方を問う人生の大切さを教わった。正に現世は解らない、阿弥陀様に問う時代なのだろう。

            (■は、虫へんに 恵という字)

         


  他力と言うは如来の本願力なり 】                  
 
            26  知 野 敬 慈 さん
 (新飯田 横町)

 親鸞聖人750回御遠忌法要は、木造建築物としては世界一の広さだという、新たに修復された御影堂で行われた。何千人もの真宗門徒による正信偈の読経は、すばらしい迫力で私を包み込み、大音響のリズムに身心が揺すぶられる体験を味わった。私にとって、50年に1度というこの法要は退職1年後というちょうど良い時期に行われたため、参加し参拝することができた。偶然とはいえ、不可思議であり、まさに仏縁だと感じた。

 この法要に参加して、親鸞聖人の述べた、「他力と言うは、如来の本願力なり」ということについて少し考えた。
 阿弥陀如来は想像を絶する長い年月を考え抜いて、あらゆる衆生を救うための願を建立し、さらに永遠にもわたる修行を積み、この願を成就した、という。この願により、すなわち念仏を称えることによって、私たちは浄土に往生することができるようになった。このことを他力と言う。
 よく、「人事を尽くして天命を待つ」などと言うが、この人事を尽くすとは、自力のことである。しかし、聖人が言う他力とは、ここで言う自力と併置されるものではなく、まったく次元の異なるもので、如来の願(他力)がなかったら、私たちは生存することさえもできないという絶対的な他力だ。
 その他力(如来の願)の前では、自力で、例えば良いことをすることによって、浄土に往生できる、あるいは往生したいなどと思うことは、傲慢不遜以外の何者でもないことになる。

 このことは何も良いことをするな、というわけではない。自分で良いと思うことや世の中で良いと思われていることをするということと、浄土に往生をするということはまったく別のものだということである。
 「他力と言うは、如来の本願力なり」という言葉は、世間の固定観念にとらわれずに自由に生きても良いんだということを教えてくれる。そうは知っていてもやはり固定観念にとらわれて行動することが多い。しかし、時として、何か不思議な力に護られ、導かれていると感ずることもある。
 私はこの不思議な力(如来の願)に包まれて生きているという感覚を大切にしたいと思う。

            
団体参拝のスナップ集

 


  自らの名のり・・・・法名 】                  
 
            25  推進員 
 

 思いがけず、主人のかわりに「推進員養成講座」を受講しました。私にとって、とても大きな仏縁となりました。
 養成講座終了、とはいうものの、仏事やお寺の事も何もわかりませんでした。
 それで、お寺の行事に行ってみようと思い、年間行事予定を見て一年通ってみました。そしてわかったことは…、
 浄土真宗の教えは、死んでからというか、死んだ人のためではなく、今生きて、今悩み、苦しんでいる、私たちの為の教えだったという事でした。
 もう一つ、「おかみそり」は、死んだ時に受けるもの、「法名」は、死んでから付けてもらうものと思っていました。ところが、生きているうちに受けるものと聞きました。
 いくら、素晴らしい法名を付けて頂いても、死んでからではもったいない。今頂いて、自分の口で名のろうと、身近にいる10人で、法名を頂く為に本山へ行ってきました。あの時の私は、御遠忌テーマの「今、いのちがあなたを生きている」の通り真宗の教えが、私を動かしてくれたんだと思います。
 そして、今おもうことは、話を聞く事は難しいです。メモを取ろうとしても、字がわからなかったりしてとても難しいです。
 でも、真宗の教えは、難しい学問ではない、生きていく為の知恵、今わからなくても、聞き続ければ、いつかうなずける日が来ることを、楽しみに聞き続けています。(推進員E)
 


  手毬 縫う日々を楽しむ 】                  
 
            24   梅澤美智 さん新潟市 寺尾東
 

 夫は、平成14年7月17日、玄関を出た直後に交通事故に遇い、救急車で運ばれて入院。まるで、切りをつけるように大晦日に息を引き取りました。
 病院から帰宅する車中で気がついたことは「お寺さまにお願いしなければならない」でした。
 直ぐに携帯電話で糸魚川の義兄(夫の兄)へ電話しますと、「待ってない」(待っていなさいの方言)という力強い言葉に、ほっとしたのが今も忘れられません。
 家へ着きますと、直後に義兄より電話が入り、「円照寺さまに聞かせてもらったが、等運寺さまにお願いしなさい。電話番号は……」との事。
 直ぐに等運寺さまへお願いして引き受けて頂きました。

 それ以来、毎月欠かさずお経を読みに来て下さっています。お経の後の四方山話の後、お帰り際に、「こんな物、どうでしょう」と云って、煮物や煮豆などを貰って頂きますが、如才なく受け取ってくださいます。
 私は今までの43年間、自己流の手毬を作り続けて、作る後から人様に貰って頂いています。珍しい柄や色合いの物が出来た時は、本棚に並べたり致します。
 等運寺さまにも幾つか貰って頂きました。
 テレビ画面を横目に、手毬を縫っていますと、好きな読書が出来ず、寝る前の一寸の間を読書に充てています。

 81歳になった私は、物忘れが気になるものの、一度きりの人生を出来るだけ楽しみたいと思っております。
                         釋尼 毬子

  円くなれ願い手毬の芯を巻く
  まろまろと手毬の芯を巻きにけり
  余念なき刻を授かり手毬縫う
  手毬縫う愛の讃歌を聴きながら
  繰り返し聴くシャンソンや手毬縫う
  待針を数へて揃へ夜なべ了



  身近にいた真宗門徒・・・・・葬儀を縁として 】                  
 
            23  山田恵美子 さん(あゆみの会・三条市
 

  8月26日、前坊守が亡くなられました。
 私にとっては「先生」でもありました。私が保育園時代、確か前住職を「おとこ先生」前坊守を「おんなご先生」と言っていたように思います。
 お釈迦様の誕生日に、お釈迦様に甘茶をかけたり、本堂での昼寝を思い出します。本堂での昼寝がだいっ嫌いでした。本堂というだけで怖いのに、寝て天井を見ると・何だかわからね・おっかねげな絵がいっぺあって、よく逃げ出していたように思います。でもそこには、にこにこした先生がいました。

 お寺に来れば、住職のそばで、お茶を出しながら、にこにこした坊守の顔がありました。今、亡くなられて思い返してみると、そのにこにこ顔が、安心=居場所=よりどころ、を私に下さっていたのかもしれません。これも、今の私につながる大事な仏縁の一つのように思います。

 そのお寺の本堂で、正式な真宗の儀式、荘厳で勤められた通夜、葬儀、坊守袈裟を掛けられた前坊守の姿、変かもしれませんが、私には光って見えました。
2000年に推進員になり、真宗の教えを聞くようになりました。2001年に、義兄を亡くし、2週間後に父を亡くして、通夜、葬儀が続きました。
 父の葬儀は友引でした。日程を決める時、住職の「ばあちゃん、友引でいいろがね」という問いに、「はあ、いいですいね」と迷わず答えた母がいました。

 同朋会青壮年部で聞法してきた真宗門徒の姿を見せ付けられました。それと同時に、本当に身近にいた御同朋、御同行に感謝でした。同朋の会推進員なりたてほやほやの私にとって、この2つの葬儀は、真宗の葬儀を考える原点、そして出発点になりました。



自分にとって本当に大切なものを知る時 】                   
              22  米持知明 さん(新潟市中央区
 
 

 30歳代の後半から、大きな病気を立て続けにしている。そのため、40歳を過ぎて、一層健康に留意しながら、高校の国語教員をしている私だが、昨秋、突然、新たな病を得てしまった。
 昨年10月、朝、目覚ましが鳴っているので起きようとしても、起きられない。ようやく起き上がれても、手足が思うように動かせない。心配している妻や小学生の娘たちに、状況を話そうとしても、呂律が回らないうえに物がいくつにも見え、バランスを保って歩けない。
 妻が、かかりつけの内科に運んだところ、「至急、市民病院へ」との指示だったそうだ。
 市民病院についたら、ベッドに寝かされたきり、自力で動くこともままならない。そして、そのまま緊急入院だと言われ、寝かされたまま緊急の検査をして、天井を見たまま、個室の病室に入った。

 実は、小脳性の運動失調で、簡単な病気ではないことを、苦痛を伴うさまざまな検査後に知ることになるのだが、動作の自由と言葉や視界の自由を奪われた日々は、もはや涙も出ないような苦痛である。
 特に排泄をするために、看護師さんの手を借りることは、少なからず自尊心を傷つけられたが、これとても、仕方がないことであった。
 点滴を24時間したままの状態でスタートした理学療法と作業療法のリハビリは、思うように動かせない体を、何とかして動かそうとしての、苦しくも前向きな労苦であった。また、大部屋に移ってからも、発音練習を続けていた。
 それは、「ここで倒れてはいられない。何とかして、家族を守っていきたい」、そして「また教壇に立ちたい」という一心で耐えられたのであった。

 1ヶ月に及ぶ長い入院生活を送り、外来通院可能となり退院。その後もリハビリと服薬、注射などを続け、ようやく4月から外来通院を続けながら、再び「教壇に復帰する」ことができるまでになった。それは、同時に「家族を守る」ということにもつながっている。
 人間は、究極の状況になったときに、一気に自分にとっての本当に大切なものを知ることになる。
 春になり、家族で見た桜の美しさは、ひときわ目にしみた。



  小学校唱歌に思う 】                   
             21  森山良雄 さん(新潟市西蒲区 巻
 

 退職してから色々の趣味に挑戦しました。70歳を間近にしてハーモニカを始め、講師先生のハーモニカの音色の美しさに魅せられ、止められなくなって10年が経ちます。
 趣味といえば聞こえはいいが、家業以外に芸事に励んだり、金をつぎ込んだりすることは、「道楽」といって白い目で見られたのも、そんな遠い日ではありません。今の私などは、とんでもない“道楽じじい”ということになります。
 5年余り前、シルバー仲間と「ハーモニカクラブ」を立ち上げました。そのうち老人ホームから慰問演奏の依頼を受けました。ハーモニカに合わせて昔の童謡唱歌を歌ってもらうのです。大きな声で歌ってくれる人、涙を浮かべる人もいました。
 それから5年余り経った今、だんだんハーモニカに合わせて歌ってくれる人が少なくなってきたのです。季節に合わせたり、昔の流行歌を入れたりして、選曲に変化をもたせ工夫してきましたが、以前のように歌ってもらえません。
 もしかして歌を知らないのだろうかと思い、演奏のとき聞いてみました。そしたら意外に私が選んだ昔の小学校唱歌を知らないということがわかったのです。
 あらためて歌詞を読んで気がつきました。例えば次の詩は『冬の夜』の2番の歌詞です。

  いろりの傍に 縄なう父は
  過ぎし戦の 手柄を語る
  囲炉裏火は とろとろ
  外はふぶき

 この歌は日清・日露戦争後の歌だったのです。それを懐かしむ人は、昭和一桁以前に生まれ、戦時中に小学校へ通っていたということになります。老人ホームでも、今はその時代の人が少なくなったということでしょう。
「戦後は遠くなりにけり」 今更ながら自分の歳を感じました、戦後の食糧難の中、育ち盛りの私を育ててくれた両親に感謝し、今、施設を訪問する側にいられることの有難さに合掌。
「父上、母上、ごめんなさい。道楽は当分止められません」



白 寿 】                   
             S 小 池   昇 さん(新潟市東区 物見山
 
 

  10月のある日、母がお世話になっている特別養護老人ホームへ妻と二人で行ったときのことです。そこは、小高い丘の上の閑静な場所に在り、その2階の4人部屋に母が住んでいます。
 部屋に入ってすぐ目についたのが、「白寿おめでとうございます」と書かれた母の99歳を祝う色紙でした。続けて白寿という言葉の由来が書き添えてありました。
 100から1を引くと99、百から一をとると白 だからと云々と。「なるほど、そうなんだ」と感心しながら母に目を移すと、知ってか知らずか、すやすやと眠っています。

 数ヶ月前までは、老々介護じゃないですが、10年来自宅で介護を行って来ました(特に妻は大変だったと思います)。日に数回のシモの世話もそうですが、もっとも苦労したことは、痴呆が進み母が多弁多動になることです。本人は、数10年も若返って昼夜を問わず見えない相手としゃべり続けるのです。興奮のあまり衣服を脱ぎ捨て裸になることもしばしばありました。これが3日3晩続きますからたまりません。
 そんな母を見るにつけ、老いからくる病と理解しつつも、早く死んでくれたら楽になるんだろうなと思ったことは少なからずありました。今、無邪気に寝入っている母の顔を見ると、ジーンとくるものがありますが。

 父が死んで50年が過ぎた今、私は、70歳を目前にして父の55歳を大幅に超えた満足感と、また、99歳の母を目の当たりにすると、もうちょっと長生きができるんではと思えたりして、何とも複雑な気持ちです。
 私を見て「何々ろんの誰々らかや」と話しかけてくる母の顔が、活き活きとして見えるのは私だけだろうか。



自己主張から 報恩の心へ 】                   
             R 山田栄一 さん(新飯田 新町
 
 

 若いころにはたびたび登山をしました。山の上から下界を見下ろすと、家と家がパズルのようにぎっしりと詰まって息苦しそうに見られました。
 その中で暮らす人たちは「おれが、わたしが」と、お互いが自分のことを主張しあっていると思うと、人々の心が小さく、くだらないと思いました。
 その時、山の上にいる自分は、心が広く世俗を超越した偉い人になった気分になります。
 下山して家に戻ると、いつのまにか「おれが、わたしが」の仲間になって、世俗のひとりになります。山の上で味わった広い心は消え去り、しかも落ち着いた気分になるから不思議であり、いい気なものです。

 人間は集団本能があって社会の中でなければ生きられません。それなのに各人が競争心や優越感をもって、自分のことを主張します。高ずると相手を消してしまいたいという殺しの心にまで発展します。まことに理屈にあわないやっかいな生き物のようです。これが人間であることの宿命なのだといわれます。

 社会と個人の対立を常に調和させていく必要があることになります。このとき各自はどうすればよいかが問われます。その答えとして、生きがいを持って生活することだと思います。
 生きがいとは、自分がよりよくなるためにはどうすればよいか考えること。他の人のためにつくすことを考えて実行すること。このふたつだと思います。

 みんなが生きがいある生活をするならば、平地にいても山の上に立ったときの広い心の持主になって「おれが、わたしが」の自己主張から、「おれは他の人のためにつくす。わたしも他の人のためにつくす」となりましょう。
 つくしあいの中から感謝の心が生まれ、報恩の心にいたるでしょう。さらに布施の心に通ずると信じる次第です。


いま、仏縁をよろこぶ 】                   
             Q  小日向 史子 さん(加茂市 後須田
 

「三条教区第18組推進員養成講座」のお誘いをご住職さまから受け、昨年7月より5回の講座を受け、今年5月23日から最終講座を京都本山で無事終了することが出来ました。
 ご住職さまから感想文の御依頼があり、私みたいな者が恥ずかしいのですが、私の感じたままを書いてみます。

 私は、奉仕団としての上山は2回目です。いま思えば、このご縁をいただいたのは、妹と母の死があってこそだと思います。5年前、「真宗門徒であるならば、その教えを知りたい」との思いにかられ、坊守さまと女性だけの『越後三条女性奉仕団』の一員として参加させてもらいました。教導と補導も女性の先生をお願いしました。
 今年は新型インフルエンザ流行のため、他の団体のキャンセルがあって、同朋会館は私たちの貸し切りでした。
 親鸞聖人の御真影の前で、お正信偈を読みました。みんなの称名念仏の声がお堂いっぱいに広がり、体全体にも広がりました。理屈ではなく、私の体に「響く」音は何だったのか。「法名」をいただいて涙が止まりませんでした。それは何だったのでしょうか。
 あの時体験した感動を確認し、思いを新たにするために、養成講座に参加させてもらいました。
 今回のご講師は、小千谷市の草間法照先生です。先生とのご縁は初めてではありませんでした。私は、「あなたの毎日の生活の中にこそ、仏道があり、そのほかに、どこかに仏道があるわけではない。そのことに気づいたことに感謝して、無理はしないように」と、お言葉をもらいました。
 御影堂修復工事着工から4年9ヵ月を経て、いよいよ竣工し、聖人の750回御遠忌の時を迎えようとしています。その場所に足をを踏み入れ、奉仕団でないと入れない場所にも行くことが出来、とてもよい経験をしました。

 このご縁をいただいた等運寺さま、スタッフ、その後の反省会で班の皆さまと会えたことと、なによりも、私を本山に送り出してくれた亡き妹と母、それに家族に感謝しています。
 主人も、昨年、「三条教区750回御遠忌お待ち受け大会」で法名をいただきました。今後は二人で奉仕団に参加することを目標に歩んでいきたいと思います。(釈尼 史響)



帰敬式を受けました 】                   
             P  梅沢美智 さん(新潟市 寺尾東
 

 5月11日、待望の「お待ち受け大会・帰敬式」に出席させていただきました。
 当日は、132ヵ寺から1300人が参加、帰敬式(おかみそり)を受けた方は548人との事。
 生きているうちに、自分の法名を決めていただく方が、いかに多いことかと痛感いたしました。

 私は、思わぬ交通事故に遭った夫を、5ヵ月半看取って亡くしました。切手やコインを収集、研究して楽しんでおりました夫は、等運寺様より「釈 独楽」といただきましたので、私も釣り合う法名をと、かねてより考えておりました。
 手毬が大好きで、40年余り作り続けておりますので「釈尼 毬子」と頂きました。
 朝に夕べに、お内仏に手を合わせる時、「独楽」と並んだ「毬子」を見るにつけ、心落ち着く日々を送っております。本当に有難うございました。

      
・南無阿弥陀 生命呼ぶ声 寺若葉
      ・念仏の 称へ心や 寺若葉
      ・満ち足りし 雀等の声 寺若葉



目的と手段を考える 】                   
             O  山田栄一 さん(新飯田 新町
 

 子どものときから「うそも方便」という言葉を聞かされてきた。「方便」はサンスクリット語で「ウパーヤ」で、本当の意味は「近づく」であるという。

 ある隊商が宝の山を目指して砂漠を行く。目的地があまりにも遠いので「あきらめて引き返そうではないか」と言い出す者が出てきた。そこで、隊長が神通力をだして、砂漠に都城を造り、「目的地はすぐそこだ」と言って、彼らを引っ張って行く。都城に着いてしばらく休むと、また同じようにして都城を造ってそれを目指して進む。
 そのようにして目的地に近づいて行く。砂漠の中の都城は仮のものであり、最終の目的地ではない。隊長である指導者が人々を勇気づけるために、そのような「方便」を講じたのである。

 この話がもとになって「嘘も方便」という言葉ができたらしい。人々を教化・指導をするためには嘘をついてもよいというのである。「手段」の意味に誤解されたためであろう。
 隊商の人々が一歩一歩、歩んでゆく、その歩みが「方便」なのである。目的のための手段ではない。ある意味では方便そのものが目的と言ってよい。

 人生がそうである。目的地に向かっているように見えるが、本当に大事なのは目的地ではない。毎日の生活である。毎日の生活こそが、私たちにとって絶対的なものである。
「毎日の生活を大切に生きること」。これが私たちの人生なのである。毎日のほかに、私たちの人生はどこにもない。

 年齢を重ねた人たちが集まると、まず話題になるのが「健康」である。健康は極めて大切である。大切であるが、それが目的でなく手段である考えたいのである。現在病気の場合は、健康が目的になることは言うまでもない。
 しかし、最終の目的が「健康」であると考えたくはない。最終の目的は次のように考えたい。
「自分が向上するためにはどうすればよいかを考えて実行する、他の人のためにどうすればよいかを考えて実行する」この二つである。

 そのためには健康でなければならない。この場合、健康を手段と考えたい。このことは健康のことを無視し軽く考えるのではない。健康でなければ最終の目的は達成できないからである。

 日常生活の中で、ときには「目的」と「手段」のことを考えてみたいと思うのである。
                    (新飯田 新町地区 総代)



真宗本廟奉仕団に参加して 】                   

             N  小林文江 さん(新飯田 砂原甲
 

 晩秋のある日、主人から「お母さん、結婚40周年記念に、京都へ行ってみないか」と誘われて内容もよく聞かないで、“京都への旅のあこがれ”と、日頃から信心のない私は、本山の奉仕の気持ちから、男女26名の一員として夫婦で参加した。

 12月10日、天候にも恵まれ、道中ガイドさんのご案内で退屈することもなく、午後2時30分、東本願寺に到着。
 同朋会館に入り、共同生活の中で、勤行で始まり勤行で終わる2日間を過ごす。
 夕食後、法話は渓内弘恵教導。昨今の社会情勢等わかりやすく興味深く聞いていたが、だんだん難しくなると、わかったようなわからないような(?)中にも、楽しい雰囲気のひとときを過ごす。
 座談会の時、疑問に思っていたことを質問してみた。私は、仏壇は先祖供養のためと思っていましたが、信心がうすいため手を合わせることが少ない。それについて、  「ご先祖様の祟りがあるのでしょうか…」
「それは、ありません」 その一言で、ホット安心すると同時に反省もさせられた。
 翌日は、御影堂門の清掃奉仕のあと、帰敬式(おかみそり)を受式。厳粛な雰囲気の中、法名をいただく。

 今まで、法名は亡くなった時にいただくものと思い込んでいたが、お釈迦さまの弟子、仏弟子になることであり、それは南無阿弥陀仏の教えに導かれ、人生を生きるということ。生きている今、受式することが本来の意味であることを初めて知りました。
 釈尼精蓮。とてもよい法名をいただき、一緒に受けた方々と大変感激しました。
 また、若い頃読んで感動した吉川英治の『親鸞』や、越後七不思議で覚えた「一人居て喜ばば、二人と思うべし。二人居て喜ばば、三人と思うべし。その一人は親鸞なり」の言葉が、ありありと脳裏に浮かんできました。

 聖人はお寺を持たずに、人々の心の中を己が住まいとされて、人々の幸福を祈っておられた。聖人のお言葉を思い出すたび、私の心の中にも居住されて支えてくださっているということの不思議さを感じます。そのよろこびと有り難さは、これからの人生の導きにもなりましょう。
 今回は、見るもの聞くものすべてが未知との出会いであり、有意義で素晴しい体験をさせていただきました。
 退館後、改修工事現場、素屋根の視察。その偉大さ、また工事に携わる職人さんにも偉大さを感じました。四年後の修復完成と、宗祖750回御遠忌には、是非参加させていただきたいと、思いを新たにしました。



真宗門徒の 日常生活の行儀 (3) 】                   

           N  村 山 教 二 さん(新潟市 巻. 11組 願興寺 衆徒
 

   私はこれまで、お内仏のお給仕と朝晩のお参りについて、次に、お念仏を称えることについて述べてきました。今回は、真宗門徒は迷信に執われないことについて述べたいと思います。

 仏法の信心は、正信であります。正しい信心とは、仏法の真実の教えに従って、南無阿弥陀仏と口に称えて、この暗い娑婆を明るく生き抜いていくことであります。「念仏者は、無碍の一道なり。」(『歎異抄』第七章)といわれます。碍りのない阿弥陀さまの無碍光に照らされて、苦難の多いこの人生であるけれども、日の吉凶がどうであるとか、方角がいいの悪いのとか、姓名判断を信じたり、星占いを信じたりする迷いに溺れないで、おらかに生きていくのであります。

 私達は「正信念仏偈」をあげますが、正信は念仏であり、念仏は正信ということです。お念仏は、呪文でも呪いでもありません。仏法の真実のもとに生きていきますという、阿弥陀さまとの合言葉であります。

 親鸞聖人の主著『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)の「化身土文類」(化身土の巻)には、
「それ、もろもろの修多羅に拠って真偽を勘決して、外教邪偽の異執を教誡せば、『涅槃経』に言わく、仏に帰依せば、終にまたその余の諸天神に帰依せざれ、と。『槃舟三昧経』に言わく、優婆夷、この三昧を聞きて学ばんと欲わば、……自ら仏に帰命し、法に帰命し、比丘僧に帰命せよ。余道に事うることを得ざれ、天を拝することを得ざれ、鬼神を祀ることを得ざれ、吉良日を視ることを得ざれ、と。
 また言わまく、優婆夷、三昧を学ばんと欲わば、……天を拝し神を祠祀することを得ざれ、と。」あります。

 優婆夷とは、在家の仏教徒のことです。三昧とは、仏法のための精神集中のことです。
 福をもたらし、禍いを避けてくれるという神々など信じて迷ってはいけないよ、ということであります。正信の道を生きましょう。

(「願興寺だより」から、願興寺さま、ならびに村山氏のご了解を得て転載させていただきました)



真宗門徒の 日常生活の行儀 (2) 】                   

           M  村 山 教 二 さん(新潟市 巻. 11組 願興寺 衆徒
 

  第118号の(1)では、お内仏のお給仕と、朝晩のお内仏へのお参りについて述べました。
 今回は、真宗門徒にとって一番大事な「お念仏を申すこと」(称名念仏)について確かめてみます。

 近年、知人宅のお通夜やお葬式、あるいはご法事に招かれて驚くことは、お参りする方々のお念仏の声が全く聞かれなくなったことです。近頃もっと驚かされることは、お念珠さえ持たない方がふえていることと、持っていても手にかける仕方も知らない方がいることです。仏法の衰退を歎かざるをえません。

 親鸞聖人の主著『顕真実教行証文類』(教行信証)の「行巻」の巻頭に、「謹んで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。大行とは、すなわち無碍光如来の名を称するなり。」とあります。無碍光如来とは、碍りなき智慧の光を放つ阿弥陀さまのことです。

 すなわち大行とは、南無阿弥陀仏と申すことです。「この行は、すなわちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。かるがゆえに大行と名づく。」と続けて述べられておられます。ナンマダブと称えることは、あらゆる功徳がそなわっているのだ。ということです。
 金子大栄師がおっしゃったように、自分の耳に聞こえるほどの声でよいから、称名致しましょう。お念仏を称え、またその声を聞く。聞名は称名によって成就するのです。

「たとい大千世界に、みてらん火をもすぎゆきて、仏の御名をきくひとは、ながく不退にかなうなり。」「弥陀の名号となえつつ、信心まことにうるひとは、憶念の心つねにして、仏恩報ずるおもいあり。」(親鸞聖人作「浄土和讃」)とおおせられています。

 真宗門徒たる者は、いつもお念仏の声を絶やさないようにしましょう。お子達やお孫さん達に、明るいお念仏の声を届かせましょう。

(「願興寺だより」から、願興寺さま、ならびに村山氏のご了解を得て転載させていただきました



                                                  
真宗門徒の 日常生活の行儀 (1) 】                   

             L  村 山 教 二 さん(新潟市 巻. 11組 願興寺 衆徒
 

 「行儀」とは、日常生活での行動や立ち居ふるまいのことです。真宗門徒の行儀とは、どんなであるべきでしょうか。

 他宗の人はいざ知らずご門徒の方は、みな聴聞しておられますから、門徒の日常生活のかなめというのは、よくご存知のことと思います。

 しかし、1960年代の頃からの、こゝ40年間くらいで、日本人の生活様式、生活文化は大きく変化しました。座敷を箒で掃く人はなくなりましたし、火鉢の五徳といっても、何のことか分からない人は多くなっています。夫婦共稼ぎは普通になり、食事さえも家族がばらばらということも多くなってきました。

 しかし、真宗門徒の家庭では、朝晩お内仏に家族でおまいりすることは絶やさないようにしましょう。仏花のお水を取替え、お蝋燭に火をともし、お線香をたいて、お念仏を申します。阿弥陀さまにご挨拶してから朝食にします。
 家族全員が揃わなくても、一人々々でも全員がお参りするのです。夕方でもそうです。一日の仕事が、お勤めが終り、あらためて如来さまにご挨拶して夕食にします。

 仏壇にお参りするのではないのです。仏壇は容れ物です。そうではなく、お内仏にお参りするのです。

 家庭の中心が阿弥陀如来さまです。無限の智慧の光と限りない慈悲のいのちに包まれて、み教えを聞きながら私達は人生を歩みます。「ナムアミダ仏」と必ず称名しましょう。お念仏の声が子や孫に伝わりますように。おじいちゃん、おばあちゃん、あるいはお父さん、お母さんが率先して真宗門徒の行儀を守り伝えましょう。

 お正信偈を上げると一番よいのですが、朝は時間がなかったら、せめてお夕事で。意訳を読んでみるのもよいですね。「歎異抄」の一章ごとを読むのもよいでしょう。
 真宗門徒の生活文化を守っていきましょう。明るく暮していく一家の姿がそこにあります。

                                                  


東本願寺 両堂  大修復工事 見学のご縁 】                   

             K 小日向 敏則 さん(新栄住建社長新飯田 下中村)
 

 当会社は、ご縁があり昨年の等運寺鐘楼工事をさせていただいた。
 実は既存の鐘楼も15年ほど前に、屋根タルキと瓦の葺き替え工事を行ったことがある。

 その時は、屋根の上で作業しても揺れはあまり感じなかった。今回釣鐘をおろす時、建物が崩れるのではないかと思うくらい揺れるので、柱に揺れどめを打ちながら、何とかおろしたものだ。

 その後の工事も、10月14日建前、屋根組みと進み、12月15日完成引渡しを行った。この鐘楼を造るに、まず本堂との調和、そして4本柱の安定感を見て感じてもらう事。さらに銅板屋根の柔らかな曲線をどう出すかに重点をおいて仕事を進めてきた。

 幸いにも良質の材料にも恵まれ、悔いのない工事が出来たと思っている。
 そんな時、ご縁があり会社の研修旅行を本山・東本願寺修復工事の見学に決めた。申し込みは住職にお願いし、3月2日に決まった。住職も是非見学したいと言われ、8名で出発した。

 当日のスケジュールは、午後1時集合。まず法話を聞き、その後案内され東本願寺の諸殿を拝観。
 いよいよ御影堂の見学である。世界一大きい木造の建物を、すっぽりと高さ50メートル以上の鉄骨の建物で囲い込み、御影堂の二重屋根の四方、つまり二階三階がかなり広い作業場になってる。階段の他に、エレベーターも付いていた。

 まずは作業場の二階。ひさし屋根の瓦と下地ははずされ、構造材等の修理中である。そして三階の入母屋。その姿はとても大きく美しかった。瓦と下地は取り外されていた。

 その中から見えるタルキの大きさ、そのタルキを支える跳ね木の使い方、屋根の曲線、隅木のそり方、どれ一つとっても驚きの連続であり、仕事の参考にというレベルをはるかに超えていた。
 また材木の種類も、欅、檜、松、柿、杉、いろいろな木材が適材適所に使用されている。

 京都の有名寺院は、必ず「誰々(時の権力者)の寄進」とあるが、この東本願寺はそうではない。全国一千万門徒の信心が結実したものなのだ。

 越後から多くの材木と毛綱が運ばれ、全国からも多くの浄財と職人衆が駆けつけたといわれている。 
 この力はどこから出たのだろうか。私たちの聞法道場であり、心のよりどころ、東本願寺には真宗門徒の偉大な歴史と、他の観光寺院にはない「確かなもの」を感じ、見学を終了した。

                                                  


絶望のない 人生を求めて 】     J 釈  慶 意 さん(新飯田 古町) 

2005年11月7日、三条別院の報恩講参拝のおり、当寺から3人の方が帰敬式
を受式されました。おめでとうございます。3人を代表して、釈 慶意さんから
無理やり感想文を書いてもらいました。


 まさかこの私が帰敬式を受けようとは…。正直自分自身が一番驚いている。おかみそりは本山で受けるものと聞いていたし、私自身そんなに勉強もしていない。もっとも勉強なんていう文字は私の辞書には、はじめっからない。

 ただ、同朋会青壮年部の仲間に入れてもらってから2年になるだけ。なにより月1回皆さんと集まり住職の話を聞き、その後の話し合いがまた楽しい。会に参加してからは、『同朋新聞』と『報恩』は、すみずみまで読むようになった。読むようになったものの、解るということとはまた別である。ものの考え方や心のもちかた価値観など、いろいろなところで参考になっているような気がする。

 そんなおり、『報恩』で三条別院でも帰敬式が執り行われると紹介されているではないか。この機会だ! なんの躊躇もなく即座に申し込む事にした。

 日一日と日が経つにつれ、なにも考えずに申し込んでしまって早まったかな? はたして自分におかみそりを戴く資格なんてあるんだろうか。いろいろ話を聞いて見ても、資格試験のようなものはどうも無いらしい。誠に有り難い限りである。

「法名に何か希望する文字は有りませんか、名前の中からも選べますよ」とは住職の言葉。これまでの駄目人間の自分となんとか決別したい。素直で優しい、どんな時でも絶望の無い生き方をしたい。私にとってはそんな思いも込めての帰敬式です。出来れば俗名ともおさらばしたい、そんな心境だから、全く違う文字でとお願いした。

「今度別院で帰敬式を受けられるんだってネ、すごく感動するれネ」と先輩に教えられていた。それでは「おかみそり」とは一体どんなことをするんだろう、興味津々別院へと向かった。

 当日の受式者は約30人。両手を合わせ少し頭を下げてお待ち下さいとの案内で、頭こそ下げてはいたが、上目使いで一生懸命観察につとめていた。おかげで聞いていた様な感激や感動は、ついに味わう事は出来なかった。

 ただ、今日からは『三帰依文』を心に、何事もご縁といただき生きることを誓い帰路についた。

 これで一安心、心穏やかな人生が待っている。勝手にそう思い込んでいたものの、その日の夕飯のおり、早速不満の怒鳴り声を発する自分に戻っていた。間髪を容れず家族揃っての大合唱、「お父さん、おかみそり、おかみそり」

            合掌        釈 慶 意(きょうい)

                                                  


お れ の 番 】        I 竹 内 孝 哉 さん(新飯田 中町) 


 「これまでは人のことだと思うたに、おれの番とは、こりゃたまらぬ」
 太田南畝がこのような狂歌を残して世を去ったということを、ずっと以前に読んだ記憶がある。
 この「おれの番」が、いつきてもおかしくない年令になってきた。現に、同期の友人が毎年のように一人、二人と亡くなっている。

 この間、歌人・俵万智の一文を読んだ。文中にのっていた「ああ母はとつぜん消えてゆきたれど、一生なんて青虫にもある」(渡辺松男)という一首を読んだとき、異様な感慨をいだいた。一生を終わるという重たいものは、人間のみが持っているものではなく、どんなものにも宿っている。花だって犬だってあるのだ一生なんて。死なんて、ごくありふれた自然のできごとなんだ、ということであろう。たしかに理屈としてはそうであろう。宇宙の星でさえ、死んだり生まれたりしているのだから。
 昨年11月、「報恩講奉仕団」の一員として本山に参詣する機会を得た。荘厳な御影堂をはじめとする本山の偉容、何回かの法話、その他いろいろな意味で得るところの大きかった3日間であった。

 その折に買い求めた『歎異抄』の文中に、唯円という親鸞の直弟子が、親鸞にむかって、「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)のこころおろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」と質問しているのをみて、いささかほっとした。まさに「極楽浄土」はこいしからずそうろうということだ。

 しかし、いかにこいしからずといい、いやですといっても「おれの番」がくれば、逝かなければならない。やはり一生なんて、ごくありふれた自然のできごとなんだ。生きとし生けるものの宿命なんだということだ。
 それをしっかり心にきざみ、「おれの番」がくるまで、1日1日を大切に生きたいものだ。願わくば浄土というところが、極楽というほどのすばらしいところであってほしい。
                                                  


三条東別院 奉仕研修 】                   
                 
H 同朋会推進員 山田恵美子さん(三条市) 

 上山してから早いもので、1年が経ちました。
「あの感動した帰敬式を思い出しながら、渡辺先生をお迎えして、真宗門徒の生き方を共に学び、語り合い、自らの更なる歩みを確かめていくご縁となるよう、別院奉仕研修のご案内をいたします」
 という呼び掛けで、6月3、4日の1泊研修をしました。

 場所が三条東別院で身近だったこと、講師が本山で出会った先生で、もう一度会いたいと思っていたことで、みんなウキウキ、ワクワクでした。
『越後三条女性奉仕団』久々の再会で、話は盛り上がり、皆の顔はいきいきとして女学生のようでしたが、講義が始まったとたん急に静かになり、「何か質問されるのだろうか、ひとこと言わなきゃいけないのだろうか」と、顔はひきつりドキドキは一年前と変わらないようでした。

 なんの資料も持たず、ただ左手に念珠のみ、厳しさの中に優しさをのぞかせながら淡々と話される先生の姿は、1年前と同じで、皆の顔もだんだん穏やかになりました。

 先生は女性で、僧侶であり坊守、嫁であり妻、母であり祖母。
「自分は真宗の教えを学び、僧になりたくてなったのに、苦しんで悩んでいるこの時に、親鸞さまの教えがどう関わってくるのかわからない。真宗の教えは『おとぎ話』のようだ。でも、真宗はおとぎ話ではないという結論を出したい。真宗の出番は必ずあるはずです」 1年前、何の飾り気もない現実の話。先生も悩むことがあるんだ、私たちと同じなんだと親しみを感じました。女性奉仕団にとって、とてもありがたい女性講師でした。

 そして今回、「やはり真宗はおとぎ話ではない」こうやって研修に来ている皆さんは、真宗門徒として歩き始めているのだから。過激かもしれないけど、しっかり門徒として名告ってほしい。私からの願いは、少々過激になってほしい」と。

 どうしよう、願われてしまった。どうしたらいいの? 住職、坊守さんたすけてください。
 法話は身近なもの、教えは現実のものというのが、ほんの少しわかりかけたようです。

 これからも手を合わせ、なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶとは何なんだ、なんまんだぶ、なんまんだぶと、念仏を称えながら聞法し確かめていきたいと思います。  ご縁あるみなさん、これからは、「か・げ・き」になります。よろしくです。

                                                  


オレンジレンジ、 マッキー、そして OZAKI 】              
                    G
太田千鶴子さん(新潟市称名) 

「わーかいもんの歌なんか、聞いてもわかりませんて」と言う前にです。

   
 ♪ 花びらのように   散っていくこと
      この世界ですべて 受け入れていこう
      君が僕にのこしたもの
      今という現実の  たからもの
      だから僕は精一杯生きて  花になろう  ♪


 そう、少し前に、オレンジレンジっていう若者グループが歌っていた『花』のフレーズ。これを聴いたとき、「なんて仏教的!!!」と驚いたのは私だけ?
 他力本願、お任せの世界。遇無空過者、精一杯の生き方。同じ じゃん!
  

 花といえば、これまた大ヒットした『世界に一つだけの花』。

    
♪ ナンバーワンに ならなくてもいい もともと特別な オンリーワン  ♪

と、繰り返す槙原敬之の作詞、作曲のうた。
 で、この槙原敬之が少し前、朝日新聞でこんなことを言ったんです。
「昔から僕は仏教が大好きで、お釈迦さまの言われた『天上天下唯我独尊』という言葉がこの『世界に一つだけの花』だったりします。どの宗教がどうとかでなく、今の時代に一番求められている考え方だよね」だって、やっぱりね。
 表現の仕方、姿かたち、年齢、時代はいろいろかもしれないけれど、同じものが流れているんだなあとうれしくなりました。《バラバラでいっしょ》の世界かな。


 もう亡くなりましたが、尾崎豊は、さまざまなこころの問題を叫び、歌いました。最初のアルバムの「十七歳の地図」には、

    
♪何のために生きているのか わからなくなるよ ♪

と、すごい投げかけをしています。

 いまの社会は、たしかに末法といわれてもしかたないような事件が、これでもかこれでもかというくらいです。されど、どっこい、まだまだ。もがき、あがき、苦しむ若者たちが発するうたのなかにも、いのちの、如来のこえがきこえてくるのは、わたしの耳だけでしょうか?


                                                  



交通戦争とは 】 F 小 林 貞 雄 さん(新潟市女池)         

 
 今まで、世界各地に悲惨な戦争で尊い問い人命が多く失われた。日本の太平洋戦争でも。しかし、これらの戦争は必ず終戦を迎えるが、この交通戦争は決して終戦という言葉はない。

 いま、日本全国で1年間に、この交通戦争で犠牲になる人は、死亡約1万人、怪我する者10万人近くといわれている。この交通戦争は、これからさらに何100年、何1000年と続いていくのであろう。

 これから益々自動車社会の中で、いかに犠牲者を少なくするかを思うとき、多くの方々が車を買われると、神社へ行って御祓いをしてもらうようです。そのお祓(はら)い手数料は、ある神社では3,000円、5,000円、10,000円コースがあると聞く。

 その金額の差は何であるかというと、お祓いの時間が長いか短いか、またお守りのお札が大きいか小さいかによるとか。神は決して安全などを護ってくださるものではないのに…。

 私は、今まで何台となく車を入れ替えたが、神社でお祓いなどしたことは1回もない。私はどうするかといえば、その車に必ず車検証がある。その車検証をお内仏に供え、「自分はこのたび、このような車を買いました。私はみ仏に、必ず安全運転することを誓います」と手を合わせることにしている。

 み仏に誓った以上、そのみ仏を裏切るような違法の運転は決してしてはならぬと固く誓って安全運転をしている。

 たとえば、競馬の騎手は馬に乗るとき、必ず馬に向かって、「これから乗せてもらう。怪我のないよう頑張ろうな」と呼びかける。終われば、馬に向かって、「よく頑張ってくれてありがとう」と、馬の首をなでてやるという

 その姿を見るとき、我々も、毎日車に乗せてもらっている感謝・有難さを、率直に車に表すべきではないか。

 車は運転する者の自由に左・右と、雨雪の中でも運転する者を無事目的地まで運んでくれる。車もいわば生き物である。そのへんの壁にぶつかったりすれば、車は痛い思いをするのだという愛車心…。感謝の心で車に乗れば、この交通戦争の犠牲者を少なくすることが出来るのではないかと思います。
 どうか運転する人たちから、この気持ちを持って運転してくださることをお願いします。

                                                  



末法五濁の有情の 】 E

高 史明 さんの記念講演(2004年12月9日、真宗教団連合新潟県支部結成大会)の聞き書きです。(文責住職)
 
     (1932年生まれ、作家。愛し子・岡真史が12歳で自死。以後深く『歎異抄』と親鸞の教えに帰依する)



 1975年7月、中学1年生になったばかりの最愛の息子が自死していまいました。私たち夫婦の衝撃は言葉にできないほどでした。
 「たすけてください。死んだ子どもをたすけてください」。子を思う親としての必死の思いが、仏縁となり、やがて『歎異抄』と出あったのです。

 人間、切羽つまったときに、「この私(の状況)をおたすけください」となるものですが、念仏の教えは、私が漠然と思っていたものと全く違いました。蓮如上人は「名号を称えようとも、仏たすけたまえと申すべからず」とおっしゃいました。
 私を歩ませてくださった大地、真実の「いのち」を見失っているかぎり、「日々安穏に生きる」ということはありえません。
 
 かつて「死にたい」と言う中学生が訪ねてきました。私は聞きました。「身体のどこが死にたいといっているの?」。中学生は怪訝な顔で頭を指差し「ここです」と答えます。「それじゃあ、手は死にたいと言ってるの?足は?」、「……?」 
 
 「家に帰って、誰からも注目もされず身体の重さを支え続けてくれた足の裏をよく洗ってから、見つめて聞いてごらん。お前も死にたいのかって。その返事がないうちは君は歩かなければならないんだよ」と。

 中学生はそのまま帰りましたが、あとで手紙がきました。「言われていることが少しわかったような気がします。だからもう少し歩き続けてみます」。



 今は姿なき息子が中学生になったときに、私はこう言いました。「今日から中学生なんだから、他人に迷惑をかけてはいけない。自分の事は自分で責任をとりなさい」。

 思えば、とんでもないことを言ってしまいました。私は今までどれだけご飯を食べてきたのか、どれだけクツをはいてきたのでしょうか。自分の金で買ったという思いから、それを作った人が見えなかったのです。自分を生かし歩ませてくださった大地が見えていなかったのです。

 文明を文明たらしめる「ことば」という智慧が迷いのもとです。「心身」といいますが、心(頭)だけで解決しようとしています。身の事実を認識しない智慧を自力、いのちの大地を見失わせていると親鸞聖人は見られたのでしょう。

 自分を中心にしても世の中に通じません。仏法を中心にしてこそ世界に通じる大地を見出せるのです。
 念仏の智慧をたまわってこそ、真のすくいがあるのです。
 
                                                  



『華氏911』 を観て 】  D 坊 守
 全米で大ヒットしたというこのドキュメンタリー映画、最初はまるで興味がなかったが、ある人から「日本の人質3人がナイフを突き付けられている映像が入っているよ。2,3秒だけど。多分、日本では放映されていないと思うよ。」といわれ、3年前の9月11日、私もテレビの前で釘付けになっていた一人として 思わず映画館に向かいました。

 4年前の大統領選挙から始まった映像(一部の評判では、選挙に併せて制作?との意見あり)は、すすむに従って、とても正視できないものとなってきました。ブラックジョークはない、まさに現実の戦争映画でした。スクリーンに映し出されることは、言葉では、とても表現できない惨状で、それが、すべて今、起こっていることなのでした。
 私には、アメリカ、イラク、日本を含むすべて(世界中)の人々へのメッセージに聞こえました。

 映画を観ながら私の耳もとで、むかし聴いたサイモンとガーファンクルの歌う「きよしのこの夜」のバックで、ベトナム戦争で戦死した方たちの名前を読み上げ続けるアナウンサーの声が、重なっていました。

 戦争には、大儀名文はいらない。戦争が、私たち大半の人たちに与えるものは「いいしれない心の闇」「心の傷(悼み)」だけなのではないでしょうか?
 ムーア監督は、「何故、戦争するのか?私は戦争はいらないよ!戦争は新たな戦争しか生まないんだよ」と言っているように聞こえました。     
                                     
 ウソに基づいた戦争に兵士を送り込んで、ただ自分と側近の利益のためにだけに彼らを危険にさらすなんて、ブッシュはアメリカ一のウソつきだ。それが早いうちにバレてホッとしているよ…。      【ムーア監督】


                                                  




  【 本廟奉仕に参加して 】      C  米 持 一 夫 さ ん(新飯田・古町)


 師走の8日から、恒例の本廟奉仕団に参加して、親鸞聖人があきらかにされた教えにふれて来ました。報恩講の期間が過ぎたためか、参加者は少なくて13名でしたが、夜持ち寄った酒を飲みながら語り合い、親睦を深めたことは上山の意義を倍加させました。
 講義と話し合いが主で、外出禁止など厳しい規律はありましたが、ゆっくりとした気楽な日程でした。

 先ず、全国から集まった4つの奉仕団の結成式、講堂に入ると背筋がピーンとします。人数は50名位か、真宗宗歌、恩徳讃、正信偈とも大きな声の斉唱と唱和で、厳粛と感動を覚え、本山に来たんだなと実感しました。

 諸殿拝観は、普通入れない建物の奥まで案内されて説明を受けました。初めての方はその広さに迷子になるほどです。

 内局との懇談で、
「本山の最大の功績は、教えが正しく伝えられることだ。本山のない寺や門徒は不幸だ」
 とおっしゃった参務のお言葉が強く印象に残りました。本山がないため、経常費が少ないことよりも、心のよりどころの本山がある私たちは幸せ者だと思いました。

 話し合いの時間では、日常私たちが遭遇する様々な問題が話題になりました。友引の日の葬儀の問題、仏壇でお参りするのは、阿弥陀さまに対してなのか、先祖に対してなのかなど。


 私たちの周囲には、いろんな宗旨宗派がゴチャマゼになって、迷信やコジツケが横行したり、邪教に惑わされて迷いを生ぜしめているのが実態ですが、真宗門徒として何が本当なのかを知るには、寺に足を運び、仏法を聴聞することが大事かと思います。

 死者にあげるお経でなく、先祖や亡くなった人のための法事でないことなど、少しずつ分かりかけてきたことは、聞法のお陰だと喜んでいます。

 いくら聞いてもわからない私ですが、たまには慌ただしい日常から離れ、娑婆の喧騒から逃れて、テレビのないまる2日間を過ごすのも、真宗門徒として意義あることと思いました。

 今回は1日早く出発して京都観光を兼ねての上山でしたが、行ってよかったと思いながら帰宅しました。                 
            (釈 勝心)

 





  【 家庭から消えた 三つの声 】      B 山 田 栄 一 さ ん(新飯田・新町)


 戦後、家庭から消えた声が三つあるといわれてきました。本を読む子どもの声と、子を寝かしつける子守歌、それに念仏を称える声の三声です。

 祖母は毎日、何度も何回も念仏を称えていました。当時子どもであった私は、
「年寄とはそんなものか」
 と軽く考えていました。
 念仏を称えることは、お内仏の前と仏事の時くらいの私が、「真宗本廟報恩講奉仕団」に加えさせていただきました。

 京都は紅葉が盛りでした。その中の本山・東本願寺で報恩講をお迎えしました。帰敬式で法名をいただきました。帰敬式は、昔の元服の式に似ているなと、その時思いました。元服の式では、子が前髪を落とされて、大人の名前をつけられます。帰敬式では、おかみそりをお受けして、法名をいただきます。

 元服の式がない現代では、人生の節目ごとに、元服にあたる式を自分の力で、求めていくしかありません。近年、お迎えは簡単にきてくれません。いつまでも、本当の名前を探し続けることになります。法名という本当の名前をいただいた私はもうその心配はいりません。しかも死後も通用する名前です。安んじて信心の生活ができます。

 信心の生活とは、自分がよりよく生きるために何をすればよいのか、人のために何ができるかを考えて実行する生活だと、自分なりに考えます。反省し、感謝し、報恩を心がける生活であると思います。さらにつきつめると「よりよい人生にするために努力する生活」くらいに、素朴で単純に考えています。

 本山での生活は4日間でした。この間に、
「このお寺は、自分たちのお寺だ」
 という意識が1日ごとに強くなることがわかりました。外出から帰ると、ホッとした気分になり、安らぎをおぼえます。掃除の手に心がこもります。また、念仏に包まれた生活でもありました。

 念仏を称えるたびに、反省し、感謝し、報恩に目覚める気持ちになります。念仏に導かれて生きた祖母を思い出します。家庭から消えた三声のことも、しきりに思います。

 この奉仕団の参加にあたって、住職さまからは、過分のご配慮をいただきました。よき人々にも会うことができました。ご恩に目を開かせられて、感謝するのみです。
                                                【釋 栄良】






 
   

  【わたしの スジャーター】          A 太 田 千 鶴 子 さん (行徳寺 坊守)

 なにしろ、今からおよそ2500年も昔のことですから、そのひとがどんな顔、声、姿をしていたのかなどわかるはずもありません。

 それなのに、はるかな時空を超えて、くっきりと思い浮かぶワンシーンがあるのです。
〔やせ衰えた釈尊(おしゃかさま)に、ひざまずき、ひと椀の乳がゆを捧げもつ村娘スジャーターのすがた〕です。

 釈尊は、《さとり》を得るため、水も、食べ物も、眠りさえもほとんど摂
(と)らず、息さえもしないようにするという苦行につとめました。
 けれども、この生死をさまようほどのきびしい苦行を続けても、真の《さとり》にはいたらず、とうとう骨と皮だけにやせ衰えてしまいました。
 『こんなことでは、駄目だ』と思うばかりです。

 さあ、その釈尊の前に現れたのが、スジャーターです。
 スジャーターの素性については、さまざまに伝えられています。けれども、やせ衰えた釈尊をまえに、若く、美しく、敬けんな女性としてえがかれています。
 スジャーターの捧げた滋養あふれる乳がゆを食べ、みちたりた釈尊は、ぼだい樹ももとに座し、49日の後、真の 《さとり》 を得たと伝えられています。

 釈尊といえば、生まれながらのエリート。すべてが完ぺき。オール・マイティと思っていました。けれども、こんなふうに何年もの苦行のはてのいわば挫折があっただなんて、正直、私はちょっとホッとしました。釈尊が、血のかよった、生きた人間として感じることができたからです。

 そして、スジャーター。 スジャーターのようになりたいと私はあこがれます。若く、美しく、敬けんになりたいと思います。それは、現に私がそうではないからです。

 たとえば、朝な朝なのお仏飯のお給仕のとき、一服のお茶を差しだすとき、夫に、姑にご飯をよそう時、あの乳がゆを捧げもつスジャーターの姿をイメージするのです。
 だけど、『乳がゆ』ってなに? どうやって作るの? わたしのなかのスジャーターは、ほほえむばかりです。






【僕が生まれてごめんなさい】        @ 新潟市 ・小 林 貞 雄 さん

                               僕が生まれてごめんなさい

  ごめんなさいね おかあさん
  ごめんなさいね おかあさん
  僕が生まれて ごめんなさい

  僕を背負う かあさんの
  細いうなじに ぼくはいう
  ぼくさえ 生まれなかったら
  かあさんのしらがも なかったろうね
 
  大きくなった このぼくを
  背負って歩く 悲しさも
  「かたわな子だね」と ふりかえる
  冷たい視線に 泣くことも
  ぼくさえ 生まれなかったら

  ありがとう おかあさん
  ありがとう おかあさん
  お母さんが いるかぎり
  ぽくは生きていくのです
  脳性マヒを 生きていく

  やさしさこそが 大切で
  悲しさこそが 美しい
  そんな人の 生き方を
  教えてくれた おかあさん
  おかあさん
  あなたがそこに いるかぎり
                康 文
                                   
 去る4月22日付、産経新聞に掲載されたこの詩を読み、感動して涙の流れを止めることが出来ませんでした。
 この詩は、脳性小児麻痺だった奈良県の土谷康文君が、世間の偏見の目を払いのけて、育ててくれた母親に対する強い感謝、その情愛を切々と訴えたものです。
 一人でも多くの人達からこの詩を読んでもらいたいと思います。

 この詩が、ある美術館の片隅に展示されていました。ある日、女子高校生の一団がその美術館見学に訪れた時、生徒が、
 「美術館なんて趣味に合わない。つまらない」
 と言って帰ろうとした時、その館のボランティアの人が、
 「お願いだから、あの詩だけ読んでいって」
 と指さした。これを読んだ全生徒が涙を流し、中には声を出して泣き出す生徒もあったといいます。

 昨今、親が子供を虐待殺害し、学校では先生に対する尊敬の念が薄らぎ、学級崩壊がすすんでいます。
 教育とは、単なる教科の学習だけではなく、子どもたちが、あらゆる経験をとおして、今生かされている幸せ、親に対する感謝、また人に対する思いやりの心を育むことでもあります。その心がこの詩の中にすべてふくまれていると思います。

 この詩の一節に「僕が生まれてごめんなさい」とあります。
 私たちは、その少年の心情を何と表現してよいのでしょうか…。只々涙あるばかり、胸の裂ける思いであります。この少年は、15歳でお浄土に帰っていかれたそうです。
 康文君、君自身の障害に卑屈にならず、親をうらむこともせず、むしろ母親を気づかっている君の温かい心は今、日本の青少年と私たち大人にも、大きな教訓を遣こしてくれました。 ありがとう。