(2003年3月)
ゲンをつぐ  

 ここ数年、車中ではもっぱら落語を聞いている。昨秋念願の「桂 米朝」の落語CDが発売され、早速購入した。
 落語というものは、初めの「マクラ」の部分が、時には落語の主題よりもおもしろいことがあ る。

 こんなマクラがあった。「ゲンが悪い」言葉は「良い」言葉に言い換えられる。「スル」は賭け事に負けることに通じるから忌み言葉とされ、反対語の「あたり」に言い換えられる。
 「するめ」は「あたりめ」、「すりばち」は「あたりばち」、「ヒゲを剃る」は「ヒゲをあたる」と。「スリッパ」は「アタリッパ」…、これだけは言いまへんなと、米朝は客を笑わせる。

 葦(アシ)をヨシ。関連して地名の葦原を吉原、シヌ田(?)を生田、荒野を興野と文字が変えられたということを聞いたことがある。現代スポーツにも、勝ち続けている間はヒゲを剃らない関取や、必ず左足から玄関を出るプロ野球選手など、これも「ゲンかつぎ」だ。

 この場合の「ゲン(験)・縁起をかつぐ」とは、吉凶の前兆の意味だったり、私の都合のよい因縁だけを願うこと。いうなれば、自己中心の「鬼は外、福は内」ということで、某国の大統領もその域を出てはいない。

 「縁起」の仏教本来の意味は、私が先に存在しているのではなく、無数無量の因縁によって私が成り立っているという意味だから、むしろ「福も内、鬼も内」となる。
                                               


                                 (2002年12月)
近視

  このごろ、新聞の細かい活字を読むのが、苦になってきた。老眼だ。これでも医学上は、衰えたというより、立派に「成長」しているのだという。

 遠視と老眼とは、原因が基本的に違うらしいが、とにかく近くが見えない。逆に、近くが見えて、遠いものが見えないと近視といい、転じて、身近なところに気をとられて大局が見通せないことを「近視眼的」と、悪くいわれている。

 現在、国連の査察団がイラク入りし、核開発、化学兵器、生物兵器の査察が行われている。自国民の貧困と引き換えに、大量殺戮兵器を開発することは、愚かであり大変危険なことだ。

 しかし、軍事衛星からの「神通力」をもって地下深くの秘密を暴き出し、将来の人類の脅威をも見据えている大国が、実は全人類を数10回も滅亡させるほどの核兵器を保有し、さらなる開発に余念がないというのは、あまりにも「近視眼的」だ。

 本来の神通力の一つ「天眼通」とは、天眼により自在に対象を見透す能力であって、敵に勝つための情報戦の能力のことではない。
 あくまでも、仏・菩薩の衆生を救済する無碍自在な「はたらき」のこと…。自分勝手な神通力や千里眼は、近視眼にも劣る。
                                                 



                                       (2002年11月)
先祖 墓 壇の関係?

 先日、同朋の会推進員である仏壇店々主のもとに、ある人から原稿が持ち込まれた。
「先祖、墓、私たちの生活と仏壇の関係」について書いてみたが、これでよいのかという相談だった。

 店主はそのタイトルと熱意に感心した。けれども一読の後、即座にこう言った。「誠に不調法な言い方ですが、これは出さないほうがいいと思います」

 こんな内容だったという。「人は死ぬと戒名をつけられて『天国』にいきます。その『霊』は、ふだんはお墓の中にいて、お盆になると仏壇の中から家族の様子を見て安心し、またお墓に帰ります。また、家族がピンチになるとたすけてくれます。だから、位牌は仏壇のまん中にあるのです…」

 この話を聞いて、店主とともに深いため息をついた。有識者といわれるその方に失望したわけではない。キリスト教、神道、仏教が混在し、仏教といっても「俗信」が本物だと思っている。これが現代の平均的な仏教理解なのかと、お互いに「この道の関係者」としての責任を感じたからだ。

 親鸞聖人は、「父母の孝養のためとて、一遍にても念仏もうしたること、いまだそうらわず」 (歎異抄)とおっしゃった。
 その原稿を書かれた方が、いつか「とんでもない間違いだった」と、自己の根底からくつがえされるような「よき仏縁」に出遇われることを願わずにおれない。 
                                              



                                         (2002年9月)
三つの ( もとどり ・ 髪の毛を束ねたところ)  

 8月3日に、二男の智海(9歳)が、真宗本廟(東本願寺)において得度式を受けた。

 得度とは、親鸞聖人があきらかにしてくだされた阿弥陀仏の本願を信じ、念仏を申し、御同朋と共に生きる僧伽の一人となることを誓いとする、僧侶にとって大事な儀式である。

 得度のために剃髪することは、聖人往事のお姿にならい、同時に『口伝鈔』にあるように、勝他、利養、名聞(人に勝ちたい、得をしたい、いい顔したい)という三つのもとどりを切るという意味がある。

 ところで今日、子どもの塾通いは益々盛んだ。勉強から、ピアノ、そろばん、習字、スイミング…。これは「せめて人並みの身だしなみとして」という昔の意識とはまったく違う。「よその子よりひとつでも多く、少しでも上に出るには、小さい時から仕込んでおいた方が有利」との、親の勝他、利養、名聞の心のあらわれではないか。

 京都から帰った翌日、髪の毛が2ミリほどしかのびていない青々とした頭で熟に行く(行かされる ?) 後ろ姿を、すでに35年も前に、三つのもとどりを切ったはずの親は、複雑な思いで見送った。
                                            



                                          2002年8月
一本の        1974年 広島平和音楽祭  美空ひばり の歌

  あなたに 聞いてもらいたい  あなたに読んでもらいたい
  あなたに 歌ってもらいたい   あなたに 信じてもらいたい

  一本の鉛筆があれば 私は   あなたへの愛を書く
  一本の鉛筆があれば      戦争はいやだと 私は書く

  あなたに 愛をおくりたい    あなたに 夢をおくりたい
  あなたに 春をおくりたい    あなたに 世界をおくりたい

  一枚のザラ紙があれば     私は 子どもが欲しいと書く
  一枚のザラ紙があれば     あなたを返してと 私は書く

  一本の鉛筆があれば      八月六日の 朝と書く
  一本の鉛筆があれば      人間のいのちと 私は書く


「猿は、猿を殺さない。人間は人間を殺す。だから、人間の台頭を警戒するのだ」と、猿アカデミー最高幹部のオランウータンは言う…。
  ( 人間と猿とが逆転した世界を描いた米映画『猿の惑星』より、1968年)

   この映画が作られた年、アメリカのカンボジア侵攻が始まり、ロバート・ケネディが暗殺された。この脚本家は一本の鉛筆で、自国と、人間の愚かさを批判してみせた。私たちに、もし一本の鉛筆があれば、これだけは伝えたいこととして何を書く?

 釈尊は、大無量寿経の中で、「兵戈無用」(ひょうがむよう)、すなわち、軍隊も兵器も用いることがない平和な世界の実現をと願われている。
                                               




                                         (2002年5月)      
 【いのび】

 川崎市の医師が苦しんでいる患者に「もうすぐ楽になるからね」と、気管チューブを抜き筋弛緩剤を注射したとか…?、なんとも気の重いニュースだ。それが合法か非合法とかはともかく、そこには、操作される「いのち」そのものの叫びが聞こえてこない。

 医療は人間の自然治癒の手助けをし、法律は世俗的善悪に線引きをするものであって、人に生きる喜びと目的を与えるかは、まったく別のものだ。まして、そこに感情が入り込むと、もはや収拾がつかなくなる。

  『阿弥陀経』に、世が末になると五つの濁りが生じ、その五番目に「命濁」。「いのち」に濁りが生ずる。すなわち、身に受けている「いのち」に深い喜びを見いだすことがなくなる時代になると。

 私たち真宗門徒は「無量寿如来」(阿弥陀如来)を本尊としていることを、今こそあきらかにしなければならならない。無量なる寿(いのち)を尊いことといただくこと。すなわち、私自身の「いのち」の中に、限りない歴史と、限りない広がりをもった世界に目覚め、その叫びを聞くことにこそ「法律」を超えた真宗門徒の面目がある。
                                               



                                          (2002年3月)      
 【世で言うから】            (同和研修会案内に添えて)

 インターネットで、偶然に葬儀社の社員用マニュアルを見つけた。枕経から通夜、葬儀の細部にわたり、その心遣いや準備が順を追って記されている。ご丁寧なことに、古くから行われているという摩訶不思議な慣習も付け加えられていた。

 友引の日はお棺の中に身代わりの人形を。火葬場から帰る時は違う道を通る。守り刀や逆さまの屏風等々…。
 よく聞くのが「清め塩」だった。そこで先月の同朋会のテーマにしてみんなで考えてみた。ここで詳しく述べるスペースはないけれども、結論としては、仏教では「死」を「穢れ」としないので、いずれも仏教徒とは無縁のものだ。

 「あの地区の子とは遊んではだめだよ」 「どうして?」 「昔から世間でそう言うからだよ…」と、何の根拠もなく、世間体や慣習に無批判に従っていると、それが小さな差別や偏見につながり、いつまでもなくなることはない。

 福岡県の人権啓発情報センターが、県内の全世帯に『どう考えます?』と題した小冊子を配布した。その中の一つのテーマが「清め塩」で、「古い迷信や慣習にしばられていませんか?」と、県民に男女差別、民族差別、また「部落」差別等を考えるためのきっかけとして問題提起している。
                                              



                                         (2001年12月)     
 【なぜ メシを うのか】 
  初冬のあたたかな午後、数時間かけて前・中・裏庭の掃除をした。自然にまかせたままの庭でも、みごとに紅葉した木々と、掃き清められた深緑の苔とのコントラストがなんとも美しい。

 その夜の雨の音に、不安は見事に適中した。翌朝、掃除する前以上の状態に戻っていたからだ。こんなことの繰り返し。どうせ何度掃除しても同じことだから、しない方がマシだとも思う。

 こんな話がある。「農家の倅
(せがれ)が、畑仕事を終え泥だらけのクワをそのままにして家に入った。親父がどうして洗っておかないのかと問うと、どうせまた泥だらけになるからだと答える。親父は何も言わなかった。

 倅が夕飯を食べようとすると、親父がなぜメシを食うのかと問う。倅は腹がへっているからだと答える。ここで親父が言った、どうせまた腹がへるんだから、メシなんか食うな!」と。倅は、ぐうの音も出なかったという。

 「どうせ死んでしまうんだから、無駄な苦労はしたくない」と、自らの命を絶った少女がいた。この少女はこの話をどう聞くだろう。

 「人身受けがたし今すでに受く、仏法聞きがたし今すでに聞く」この言葉に出あい、うなずき、自身のいのちの不思議に驚愕することがあったなら、「どうせ同じことだから…」という答えが違ったかもしれない。

                                               



                                           (2001年11月)     
 【大いなる い】 

       【 少年の射撃訓練 】
 
 アメリカ同時多発テロの報復攻撃としてアフガニスタンへの空爆が続いている。これからの冬の極度な寒さと餓えの中で、今回のテロと無関係な人命が、どれだけ失われるのだろう。

 ごく一部のイスラム原理主義の指導者は、これは聖戦(ジハード・jihad)だという。しかし、教祖ムハンマドは、アラブが長い戦いの後に統一された時「これで小さな戦いは終わった。これからは大いなる戦い(聖戦)がはじまる」と言った。

 外敵との戦いは小なるもので、自己の欲望に対する戦いこそが大いなる戦いであり、本来の意味での「聖戦」なのだという。

 内なる戦いであるはずの「聖戦」の名のもとに行われた自爆テロ。『愛の宗教』といわれる聖書に宣誓したはずの大統領が「正義の戦い」という名の報復爆撃…。

 理由の如何を問わず、殺人を容認する宗教は世界のどこにもない。現に大多数のイスラム教徒も穏健な平和主義者だが、宗教を政治利用すると過激なものになることは、世界は言うに及ばず、日本の歴史でも実際に証明されている。

 「新たな悲しみを生む報復はやめて欲しい」と言った自爆テロで犠牲になった青年の父親だけが「大いなる戦い」をしているのかもしれな
い。