秤 ばかり 】                 2018年5月
 

 この春、めでたく年金をいただく身となった。60歳半ばを過ぎると、忘れてはならないことを忘れ、どうでもよいことばかりを憶えている。

 「記憶にありません」とは、まったく都合のいい言葉だ。イエスでもノーでもない。「やってない」と言って、証拠が出てくれば罰せられるのに対し、単に「忘れた」のであり、ウソをついたわけではないから、たぶん偽証にはならない。

 「称名」(念仏)イコール「聞名」であるといわれている。仏の名を称えることは、仏の願いを聞くということである。

 この「称」の字を親鸞聖人は、「秤(はかり)」という意味があり、ものの軽重をはかるという字であるといわれている。 
 中国の善導大師も、「称」の字を、「称う(かなう)」とも読むとおっしゃった。今の辞書で「称う」はないが、仏の願いと私の応えが合致する意味で「適う(かなう)」が近いのかと思われる。

 仏の「いのちの尊さに目覚めよ」という呼びかけを聞き、「まことにその通りでございます」と応える。その願いと応えが同質であり、見事に天秤ばかりの両側で釣り合い、合致しているということが称名念仏なのだ。

 高級官僚を志したころの純粋な思いと、今の打算的な行ないを天秤ばかりに載せて、はたして釣り合っているのか。法的にどうかというより先に、まず自らの良心に適っているのか問われなければならない。




 死化粧と整形 】                 2018年3月
 

 葬儀会場で、まず目が行くのが故人の遺影。特に葬儀に必要というわけでもなのに、阿弥陀さまを押しのけて、ドーンと真ん中に飾られている。

 このごろは、カジュアルな装いでにこやかな笑顔の写真が多い。たぶん写真には、小じわ、シミ、肌のツヤなど、少しだけ修正が加えられているのだろうが自然な感じだ。お棺の中の故人の顔も、エンゼルメイク(死化粧)またはエバーミングといって、若々しく眠っているようで、遺族に安らぎを与えてくれる大事な仕事だと思っている。

 一方、平昌オリンピックで現われた「北の美女軍団」。「南の整形美人」も有名だ。本当かどうかは知らないが、ユーチューブで見る「術前術後」の写真には絶句してしまう。もはや友人や家族と出会っても分からないし、本人ですらも元の自分が誰なのかを忘れてしまったのではないかとも思う。
「美女軍団」も「整形美人」も、それを頼りとして永遠に続くものだと勘違いしているとしたら、相当の苦しみを受けることになる。私たちも同じだ。

 常なるものはない。それがあると思っている。自分の事、世間のことがすっかり分かったつもりでいる心を無明(迷い)という。それが苦しみの根本原因だ。

 先月、江南区のお寺からチラシが送られてきた。そこには、「凶悪犯の指名手配写真」があった、と思ったら私だった。ひどい写真だと云ったら、坊守は「そのまんまだよ」と言う。一番知っているはずの本人が、性質はおろか、容姿さえも分かっていなかった。




 ドライブ ルー 】                 2017年12月
 

「ネットで注文、翌日配達、送料無料」。
 こんな商品をどれだけ買ってきただろう。しかし、すっかり定着した宅配サービスが崩壊寸前だという。
 取扱量の想定外の伸びに、不在のための再配達、昼休みも取れない過酷な業務のためのドライバー不足という、負のスパイラルに陥っているからだ。

 「食材配達サービス」は、間違いのない食材で、栄養士がメニューを考えてくれるから、働く主婦の強力な味方だ。
 そこに「ネットスーパー」なるものが参入してきた。スーパーのあらゆる商品がスマホから注文できて、最短3時間で自宅に配達されるという。しかも、買い物額によっては配達無料。

 1930年代にアメリカで始められた「ドライブ・スルー」は、日本でもハンバーグ業界で根付き、近頃は、カレー、牛丼、たこ焼き、豚カツ、寿司、長崎チャンポンなど多種多彩。さらに、調剤薬局、メガネ屋さんもあるとか。

 今月、「ドライブスルー型の葬儀システム」を引っさげて、建設業・産廃処理を行う業者が、葬儀事業に参入するというニュースが伝わった。
 葬儀場の一般参列者の後ろに焼香代を設置して、車が通り抜けられるスペースを確保。参列するドライバーは、タブレットで名前を入力し、香典を渡す。そのまま乗り入れて、車に乗ったまま焼香を済ませる。その後ボタンを押してゲートを開いて退場するのだという。

「イオンのお葬式」で僧侶派遣もある時代、いずれ「ドライブスルー型僧侶でお葬式」があるのかも。




 のために 生まれて 】                2017年11月
 

 三条別院の報恩講も、いよいよ明日の11月8日で終わろうとしている。突然の発熱で、ようやく7日の晨朝から出仕することが出来たが、報恩講「全イニング出場記録」が10年ぶりに途絶えてしまった。    

 別に記録狙いではない。別院報恩講は、事前事後、表と裏仕事、多くの真宗門徒の労力に支えられている。そこで「別院に集う人々」のお姿を拝見し、触れ合えることが、代えがたい宝物だと思う。

 今春、京都に4回行った際にも、10人ほど(僧侶、門徒、男女、年齢バラバラ)の友人が出来た。みな熱心な真宗門徒だ。また、来春4回上山の機会があるので緊張し、かつ再会を楽しみにしている。
 「人目仁義ばかり」を気にしてではなく、純粋にそこに集う人々、それらの方々とお話すると、いかに寺の生活に埋没しているのかがわかる。それもお土産。

 別院でのお土産話をひとつ…。
  ♪ 何のために生まれて、何をして生きるのか、
    答えられないなんて、そんなのはいやだ ♪

 幼児向けのアンパンマンの歌に、とんでもない歌詞がある。別院の松葉幼稚園では、『三帰依文』を幼児向けにして、「私たちはほとけの子どもになります。私たちは正しい教えを聞きます。私たちはみんな仲良くいたします」と唱和している。

 私たちは、ほとけの子どもになるために生まれて、正しい教えを聞きながら生きるのだ。




 人の知恵と 鳥の対応能力 】               2017年9月
 

 果樹園付近を走ると、大きな鷹が低空をホバリングしている光景を目にする。
 あちこちに2羽、3羽と飛んでいて、キジ、タヌキ、ハクビシンの次は、鷹の大発生かと思ったら、ムクドリ、カラスを追いはらう「鳥追いカイト鷹」という凧だった。
 田んぼや果実を食い荒らす鳥獣との闘いは、古くから自然災害の次に深刻な問題だった。

 数日前、能登の山道で、30sあろうかというイノシシが道の真ん中で仁王立ちしているのに出会った。それはまだ子どもで、幕内力士ほどの体長と体重のイノシシがいると聞いてビックリした。他にクマにシカ、ムジナにタヌキ、サルがいるので、田畑の被害と危険性は、およそ平地の比ではない。
 彼らも生きるために必死で、見事この時代に対応したものだけが生き残っているということだ。

 生物の進化(DNAの突然変異)は、妊娠中か卵の中でしか起こらないというから、人間よりも世代のサイクルが短く多い鳥獣や雑草の方が、対応能力が優れているという理屈が成り立つ。殺虫剤や除草剤で一網打尽のはずが、いつの間にか薬剤への耐性をもつように進化しているのを現実に目にすることがある。

 人として生まれること、驚くべき動植物の進化、個々の意志や願望は全く無力でありながら、私たちの思いを超えて、はたらいている何かがある。不可思議としか言いようがない。




 唯だ我 りとして尊し 】               2017年7月
 

 釈尊は、生まれてすぐに七歩歩いて「天上天下唯我独尊」と言われたと伝えられている。この言葉は、ただ「私だけが尊い」という意味をあらわしているのではない。

「唯我独尊」とは、「唯だ、我、独として尊し」(ただ、われひとりとしてとうとし)との意味であり、それは、自分に何かを付与し追加して尊しとするのではない。他と比べて自分のほうが尊いということでもない。天上天下にただ一人の、誰とも代わることのできない人間として、しかも何一つ加える必要もなく、このいのちのままに尊いということの発見である。

 しかも、釈尊は生誕と同時にこの言葉を語られたと伝えられている。これは、釈尊の教えを聞いた人々が「釈尊は、生涯このことを明らかにせんとして歩まれた方である」という感動を表現したものである。
 ふだん私たちは、これこれの財産があるからとか、名誉や地位があるからといったことによって、自らを他と比べて立派だと思いこんでしまう。

 しかし、この釈尊の言葉は、人間は何らかの条件によって尊いのではなく、人間の、いのちの尊さは、能力、学歴、財産、地位、健康などの有無を超えて、何一つ付加することなきままで尊い「私」を見出すことの大切さを教える言葉である。
 この言葉はひろく世間に流布しているけれども、その意味が明らかになっていないところに、自他の、世界の、混迷があると言ってもいいかもしれない。
                (元大谷大学教授 泉 惠機)

  
※ 40年前に本山で存じ上げ、特に女性職員に人気のあった泉 先生の文章を転載させていただきました。(一部抜粋)

 
 ※ 関連記事があります。



 遠 く 宿 】               2017年4月
 

 父の学生時代の同級生の氏は、型破りではあるが、単に世間話では終わらない仏法を語る方だった。その方の、30年以上前の法話を覚えている。

「人は、どこから生まれ、死んだらどこにいくのかと思うだろう。そこに中之口川が流れている。その川のどこかで、渦を巻いたのか、誰かが石を投げ込んだのかはわからないが、何かの拍子で泡が出来たとする。その泡を見て〈産まれた〉と言う。  
 その泡に太郎なり花子なり、名前が付けられ、しばらく流れていくうちに、パチンと泡がはじけると〈死んだ〉と言う。               
 泡はどこから産まれ、はじけたらどこにいくのか。言わずと知れたこと、不思議なご縁で川の水から泡が出来、ご縁が尽きて、また川の水に還ったのだ」

 このたとえ話は、800年前に記された『方丈記』(鴨 長明)を参考にした話かもしれない。

 「ゆく川の流れは絶えずして、しかも もとの水にあらず。淀みに浮ぶ うたかた(泡沫)は、かつ消えかつ結びて、久しく止まる事なし…」

 当時京都の町は、10年足らずの間に、大火、大竜巻、大地震、大飢饉、さらには源平合戦もあって、数万人の餓死者を出して大混乱の時代だった。その地獄絵図を目の当たりにして書かれたものが、『方丈記』だ。

 時代が変わっても、やがて死すべき身であることに違いはない。しかし、すでに奇跡的に人としてのいのちを賜っている、その尊いご縁に気づき、よろこべるか… なのだ。




 デ カ ン シ ョ 】                   2017年3月
 
「 ♪ トランプ、北朝鮮、豊洲で、ひと月暮らす。ア、ヨイヨイ …♪」。朝6時、梵鐘ひと撞き後のラジオで聞く1ヵ月のトップニュースは、うんざりするほどこの繰り返しだった。
 そこに「森友」が新規参入してきて、メディアは大騒ぎ。でもその間に、もっと大事なことが忘れられているような気がしてならない。

「♪デカンショ、デカンショで半年暮らす…」で知られる『デカンショ節』(第七番の歌詞)は、明治期から歌われている丹後篠山の「みつ節」の変形といわれている。。旧制一高の水泳部員が、デカルト・カント・ショーペンハーウェルという三人の哲学者の名前をとって歌ったという説は、もっともらしいが、どうやら俗説らしい。

 この16世紀フランス生まれの哲学者ルネ・デカルトは「我思う、ゆえに我あり」という言葉が有名だ。「冷静な思考によって存在が証明される」とでもいうのだろうか、私にはまったく理解できない。

 対して、同じテーマで「私とは何ものであるか」を徹底的に追及されたのがお釈迦さまであり、仏教が開かれる基となった。また近代では「自己とは何ぞや、これ人生の根本問題なり」と、明治の清沢満之師も大きな課題とされ、その系譜は連綿と今に受け継がれてきた。

 このテーマの答えがお釈迦さまの「さとり・目覚め・気づき」なのだが、あまりに知られている言葉であるがゆえに、忘れられているのが残念に思う。

   ※ 関連記事  「新潟の 男と杉は 育たない」?



 きていることを楽しむ 】               2016年12月
 

 牛を売る者と買おうとする者がいた。翌日に牛の代金を支払って引き取ることとなった。
 しかし、その夜に牛が死んでしまった。これは、「買おうとした人が利益を得、売ろうとしていた人は損をした」と言う人がいた。
 これを聞いた近くにいた人が言った。 「牛の持ち主は本当に損をしてしまったが、大きな利益を得たとも言える。なぜなら、命あるものは死の訪れを予測なんてできない。死んだ牛も当然予測できないし、人間も同じようなものだ。予期せずして牛は死んで、予期せずして牛の飼い主は生きている。
 一日の生命は、金銭よりも重いんだ。死ぬのに比べれば、牛の代金なんか羽毛よりも軽いよ。多額の金に勝る生命を得て、牛の代金を失っただけだ。損したとは言えない」と。

 それを聞いたみんなは嘲り笑った。更にその人は言う。「人は死をにくむのであれば、生を愛するべきだ。どうして、生命の喜びを毎日楽しもうとしないのか。愚かな人は、生きる喜びを忘れて危険を犯してまで他に楽しみを求めている。生きる事を楽しまないで、死が間近になってから死を怖れている。

 生きている事を楽しめないのは死を怖れないからだ。いや、死を怖れないのではない、いつも死が接近している事を忘れているだけだ。もし、自分の生死なんかどうでもいいと言うのであれば、真の悟りを得たというべきなのだろう」 
 それを聞いて、みんなはいよいよ嘲り笑った。


  『徒然草』第93段(吉田兼好)より
   現代語訳(西尾実・安良岡康『新訳 徒然草』) 一部加筆




 水に入りておちず 】               2016年11月
 
 この春、ある仏縁があって札幌に出かけた。35年ぶり3回目の札幌だった。たまたま出かける前から体調が悪く、食事は2晩ともホテル内でとった。
 友人は、何を食べてきたのかと聞く。通夜と葬儀に伺っただけだから、帰りに高速道のサービスエリアで山菜そばを食べたのが唯一の外食だと言うと、「それでは何のために札幌に行ったのか意味がない」と言う??。

 報恩講で拝読されている『御俗姓』は、蓮如上人が63歳の時に製作されたもので、後半に報恩講をお勤めする際の心構えを示されている。

 
義理や名誉の為に報恩講に参詣しても、念仏申す一念の中に、本願に相応した究極の目覚めを体得し得ない人々は、この報恩講をお勤めする本当の意味にかなう筈はありません。それはせっかく風呂にはいっても、垢を落とさないで出てくるようなものです。
              
【現代語訳 櫟 暁(いちいさとる)】

 よく「今年は当たり年で、お通夜と葬式が何回で、法事が何回もあった」というようなお話を聞く。その出費も大変でしょうけれども、費やした時間は有意義でしたかと聞いてみたい。

 義理で出席したにしても、お念仏を一遍でも称えたことだろう。そのお念仏こそが如来の「目覚めなさい」という呼び声だったのだ。如来の呼びかけが私の声となって、それを私の耳で聞く。「称名すなわち聞名」といわれる所以だ。
 ジンギスカンとラーメンを食べて満足していたら、それこそ「水に入りて垢おちず」というものだ。




 
言葉のを渡る舟 】               2016年9月
 

 諸橋轍次 記念館 (三条市)
   ・・・         
 三浦しをんさんの小説『舟を編む』が、病院の図書室にあったので一気に読んだ。単行本が刊行され映画にもなったのに、とうとうその機会がないまま5年も経ってしまっていた。

 出版社の国語辞典の編集部が「金食い虫」と白眼視されながらも、辞書の世界に没頭していく姿を題材にした作品。この10月からテレビアニメ化されて放映されるらしいが、関東圏のみということだ。

 完成までに実に75年を費やした諸橋轍次氏の『大漢和辞典』。60年余りの間に六版を重ねた『広辞苑』。漢字文化と成り立ちの研究書というべき白川 静氏の『字統』など字書三部作。それぞれに編集者の執念と矜持が感じられ、世界文化遺産に「書物」の項目があれば、間違いなく対象となるはずだ。

 青少年が読んではいけない辞書として世界的に有名なのが約100年前の『悪魔の辞典』(アンブローズ・ビアス著)がある。たとえば…、      【幸福】他人の不幸を見て沸き起こる快い気分。
 【平和】国際関係で、戦争と戦争の間のだましあいの 期間…。
パロディーだと割り切ればいいのだけれども、気分が悪くなる。

「辞書は言葉の海を渡る舟で、その海を渡る舟を編んでいく」のだという至高な志は、『教行信証』を著述された親鸞聖人、また『御文』を製作された蓮如上人の志に通じるものがある。




  度 目 の 往 生 】               2016年7月
 

 「シマウマは、黒に白のしましまですか、白に黒のしましまですか ?」           
 子どもらしい奇想天外の質問に、3人の回答者が答えるラジオ生番組『全国こども電話相談室』は、東京オリンピックの年から44年間続いた長寿番組だった。

 その回答者としてよく出演されていた 永 六輔さんが亡くなった。単に知識をひけらかせばいいというものではない。質問者の発育度合いに合わせた答え方の巧みさが問われてくる。だからいわゆる学者ではない無着成恭、中山千夏。近年では、ピーコ、さかなクン ダニエル・カールなど30人あまりが出演していた。

 答えに窮する質問があると、「なんて素晴らしい質問なんだ」と、やたらとほめながら答えを思案するがとても短い時間で次から次へと答えられるものではない。そういうときは、翌日の宿題にしたり、放送が終わってから電話で丁寧に回答していたという。

「なぜ人を殺してはいけないの?」       
「どうせ死んでしまうのに、なぜ生きていかなければ ならないの?」
 (イジメを受けている子どもの質問)

 このとんでもない質問に、回答者たちは絶句し、答えることができなかった。人は必ず死ぬ。それならば積極的に「老・病・死」に対する知恵を先人たちに学ぼう。そのことが生の尊さを照らし出すことになる。『大往生』は200万部を超える大ベストセラーとなる。


   
関連記事があります。「いろいろな質問」




 報 道 の 】               2016年5月
 
 
 学生寮で2年間寝食を共にした熊本の友人が被災し、建物の一部に「赤紙」が貼られた。電話したら、「心配して電話をかけてくれたことが何よりもうれしく力になる」と言い、欲しい物はと聞いたら、「嘘でもいいから『終息宣言をしてくれ』と言った。余震の終息がなければ復興の始まりはない。

 テレビ・ラジオは、日々熊本地震の状況を克明に伝えている。ところが、1943(昭和18)年から4年連続の大地震で、1万人以上の死者・行方不明者を出したことは、闇に葬られてしまった。戦時中国民の士気を下げないために、『大本営発表』以外の報道が厳しく規制されていたからだった。

 折しも、国連NGOが公表した「報道の自由度ランキング」で、日本は180国・地域で72位と、6年前の11位から大きく後退した。確かにこの数年、真綿で首を締められるような、ゆるやかだが確かな変化が感じられる。
 放送局への電波停止という脅しも然り、また、国内唯一運転している川内原発(鹿児島県)について、人事権者であるNHK会長の「公式発表をベースに報道するよう指示」も、NHK職員には軽くはない。

 『大本営発表』ではなく、各社独自の自由で素早い報道が、結果的に被災地を救うことになる。また憲法21条は、表現の自由を保障し検閲を禁じている。

  1943年 鳥取地震、 1944年 東南海地震、 1945年 三河地震、
  1946年 南海道地震



  】               2016年3月
 

 20年以上前に、まだ目のあかない捨て猫を育てたことがある。かなり大きくなるまでは生き物は人間しか知らないし、私たちを親だと勘違いしていたようだった。だから、週3回は一緒に風呂に入っていたし、豆腐や菜のおひたしを食べ、特に納豆かけご飯が大好物だった。

 犬に囲まれて育ったペットのミニ豚が「ワン」と鳴くようになったという記事を読んだこともある。育った環境によって勘違いするようになるということは面白く、また複雑な気持ちがする。

 二世議員さん、社長の御曹司さん、大きな寺の若さん。家元の跡継ぎさん。二世・三世ともなれば、生まれ育った時から特別扱いを受けていることが多い。その環境が「自分は偉い」と勘違いさせてしまう因となってしまう。人々は、その職責と、社会貢献と、歴史の重さに対して尊敬の念を寄せているだけなのに。

 西本願寺の大谷光真 前御門主が、「人間に宗教があるのは、果たして動物より高級であるからなのだろうか。動物には、すでに宗教が必要のない命に恵まれているとように思える。宗教が人間にあるというのは、人間が高級だからあるのではなく、それだけ欲が深く、罪深い動物であるからという受けとり方ができるのではないかと思います」とおっしゃっている。
「人間は万物の霊長である」。これも人間の根本的な勘違いかもしれない。

 子どもや物を授かるというと聞こえはいいが、自分の手に入ったとたんに自分の所有物となる。預かりものといただけば、いずれお返しするものとして大切にする。この身体も仏さまからの預かりもの。