「南無の会」会員による1年間の リレーエッセイ

徒 然 抄  1998年

(1998年12月)

 1998年も残すところあと1ヵ月。最近の出来事や、イベントがあるたびに「今世紀最後の」という言葉が使われる。最近では、今世紀最後の大流星群が注目された。残念なことに、新潟ではあまりよく見られなかったが、全国津々浦々、老いも若きもそろって大流星群の夜空を見上げ、願い事をしたのだろうか。

 若いときは、自分の将来の夢がかなうようにと願うもの。ところが、歳をとるにしたがって現実的な願い事になるのである。今の私であれば、早く景気が良くなってくださいなどと願ったであろう。反省しきり……。

 願い事と言えば、私は毎日一人静かに相田みつをさんの日めくりを眺めている。その中に、『おさい銭百円玉一つぽんと投げて手を合わす。お願いごとの多いこと』とある。

 もう1ヵ月もすると、どなた様もこの心境におぼえがあるのではないか。願い事は幾つも幾つも止めどなく出てきますが、私が見ている日めくりの言葉は幾つもおぼえておりません。凡人である私の悲しい現実であります。

 ただ、この言葉だけは心に刻んでおきたいと思っている。『浄玻璃の鏡の前は、秘めておきたし、あのことも、このことも』。浄玻璃の鏡とは、地獄の閻魔王庁にあって、亡者が生前になした、善悪総ての所業を映し出すという鏡のこと。おっかない鏡ですね。
              【少し修行を始めた推進員】



(1998年11月)

9月22・3日、富山県八尾(やつお)町に行ってきた。あの「おわら風の盆」の発祥の地である。毎年9月1〜3日の3晩、ぼんぼりの明かりが灯り始めるころ、揃いのはっぴや浴衣に編笠姿の男女が集まり三味線や太鼓胡弓の音にあわせて踊るのが「おわら風の盆」だ。

 この町の地形は、八つの尾根が集まる坂の多い町なので「八尾」と名付けられたという。町の最初の坂を登りきると、聞名寺(正応3年・1290年本願寺3世の覚如上人が創設)の荘厳な姿が現われる。その由緒には、八尾町はその門前町として栄えた町と書いてあった。

 今回の私達の目的は八尾町の町並み造りの研修に来たのである。バスを降りていよいよ町を散策する。めざすは「日本の道百選」にも選ばれた諏訪通り。道は石畳、無電柱、そして住宅は格子戸に雨板、白壁の民家が建ち並ぶ。間口の狭い広い家、形は違うがなぜか格子戸と白壁のバランスが調和して映る。

 考えてみると、間口の狭い住宅は、住むとなるとかなり使い勝手は悪く、住みにくさもあるかと思われる。ところが、郊外に転居しないで、皆この町にそのまま住んでいるのだと役所の人から説明を受ける。その理由は、皆この町に住み「おわら風の盆」を唄い、踊りたいのだと聞いた。

 300年余りの歴史がある「おわら風の盆」の伝統行事を継承し、さらに町並みをも保存しようという、すばらしい文化と心意気に触れた思いである。

          【台風もかえりみず旅に出た推進員




(1998年9月)

 7月下旬の暑い日々。こんなに暑いのにまだ梅雨明け宣言がでない。農家の話を聞くとハウスぶどうも露地ぶどうも一緒の出荷になってしまうと心配しておられた。

 そして8月、これから暑くな
るのかと思っていたら、今度は雨ばかり。8月4日、早朝から降り出した雨はとくに新潟市と笹神地区には記録的な集中豪雨をもたらした。

 テレビニュ−スでは、街全体に水が溢れ、住民の茫然と立ちすくむ姿、また家に水を入れないように必死になっている姿を映し出していた。笹神地区では普段水の流れが少ないのに鉄砲水により堤防が決壊し地区全体が水に浸かってしまった。この水害により田畑は土砂に埋もれ、流れてきた巨石や木々が散乱していた。

 農家の人の話を聞くと今年は稲の育ちがいいから、あと20日ほどで刈り取りだったのにと唇をかみしめ、インタビュ−に答えておられた。米作りのうまい人は、田んぼに聞きながら肥料をやると聞く。そのくらい大切に米を作ってきたのに、一瞬にしてなにも収穫できない田んぼも出てしまった。

 大地からの授かりものでもある食料、その中でも主食として大切なお米、私たちは普段はあまり考えていないが、こんな水害を見ると心重く感ずる。そんな時ふと家の食堂に飾ってある額を見る。
「み光のもと、われ今幸いにこの浄き食を受くいただきます」
「われ今この浄き食を終わりて心豊かに力身に満つごちそうさま」
じつに心にひびく言葉である。
                        心も梅雨空の推進員




(1998年8月)

 
世界中を熱狂させたサッカ−ワ−ルドカップは地元フランスの圧勝で幕を閉じた。日本もあの「ド−ハの悲劇」から4年、見事に予選を突破してフランスへ。

 その全敗の結果に対して、選手が悪い監督の采配が悪いという批判がある。私はそうは思わない。あんなに選手が頑張ったではないか。いよいよ次回は2002年、日韓合同開催。今度こそ地元で悲願の一勝、いや決勝ト−ナメントと、つい夢が先走る今日このごろである。

 もうひとつ注目するスポ−ツが大相撲である。第66代横綱若乃花、あの小さな体で本当に頑張った横綱は負越しても番付が下がらない、あるのは引退だけである。同じ小さな横綱千代ノ富士が横綱に推挙された時、九重親方が、
「なあ千代ノ富士、引退する時はスカッと辞めような」と、
千代ノ富士はとんでもない親方だと当時を振り返っている。その後親方に反発するかのように稽古に励み小さな大横綱へと成長していった。若乃花も稽古を積み立派な横綱になってほしいものである。

 お寺の近くで仕事をしていると、4人のお婆さんがお寺から出てこられ道端で立ち話、皆さん本当に楽しそうであった。村の同朋会だったそうである。

 その時自分のことを考えてみた。ちゃんと28日の「南無の会」があるのに、用事が出来たり作ったりで、そちらを優先してしまうそれでいいのかと自分に問いかける、28日こそ自分を見つめ直す日ではないかと。今後思い直し毎月出席しようと決心させられた

       【
相撲が好きで 遅まきながら目覚めた推進員




(1998年5月)

 4月3日、「全国推進員代表者研修会」の参加者に同道して、京都参りをさせていただいた。昨年から続いている蓮如上人500回御遠忌の最大のイベントを待つ東本願寺へ行ってみたいなと常々思っていた。

 京都は桜が満開。既に境内はイベント用テントや展示物等で飾られている。次に西本願寺、国立博物館へと足をのばし蓮如上人の事跡を中心に本願寺の歴史と名宝の美術品を見て回ったところで上山研修の推進員と別れる。これから一泊の研修とのこと、ただただご苦労さま。

 私たちも宿に行きひと休み「新潟屋」さんである。入るなり「おいでやす」、京都弁のやわらかい言葉。部屋に入ると、こんどはおかみさんが「おめさんたちどこからこられたね」、白根弁である。

 話によると臼井出身で、なかなか実家には帰れないと懐かしそうに話をされた。宿の夕食は頼んでいないので外食に出かける。夜桜を見ながらちょっとほろ酔い気分、歩いてはまた寄り道、桜も気分も最高。宿に帰ったのはかなり遅い。今日は布団でゆっくり寝られる……。

 早朝、各自身支度を整え、誰が言い出すともなく、自然に本山の朝のお勤めに足が向く。ほかの参詣者も集まって来られ、お勤めをし法話を聞く。

 日々集う人が変わってもこの法座は一日も休むことなく続き、何億千万の人たちがこの場に集ってきたのである。その歩みこそ真の信心なのであろうか。いま蓮如さんから真実の法話を聞いた思いである。

            【車の後部座席で楽をした推進員】




(1998年3月)

 
清水選手の活躍に思わず涙したと思う間もなく、原田選手をはじめとするジャンプ陣に、またまた涙を流して応援をした長野オリンピックも終わりました。

 しかし、何でこんな時の「日の丸」を見るとインタ−ナショナルになるのか不思議でたまりません。僕の周りを見ても、同じ気持ちの人達が沢山いました。

 人々の気持ちが一つになるということは理屈ではなく、何か心の中からわき出てくるもの。それが我慢できなく思わずさらけ出してしまい、ふと我に返り恥ずかしく周りを見る、そんな時のような気がします。

 ステキな言葉や体裁を頭の中で考えるより、自分の感情を素直にさらけ出せた時こそ案外気持ちが通じ合う早道かもしれません。


 恥ずかしながらまたまた泣いてしまいました。五輪の表舞台に隠れていた中で、一人のテストジャンパ−の番組を見て自分自身の情けなさがつくづく感じられます。

 彼は生まれつき耳が不自由にもかかわらず、両親はじめ周囲の応援の中、見事に大役を果たしました。名前も告げられず、飛距離も記録に残らない彼は「ジャンプ台に登るまでは障害者かもしれないけれど、それからは一人の選手です」そんな言葉を言い残しました。

 「空を飛ぶのは、鳥に羽根があるから、ただそれだけのこと。足があるのに歩かない俺には、羽根もはえやしない」
 そんな昔の歌が頭の中をよぎりましたそうですね、今の僕には羽根どころか、足すら無いような気がします。有り難う、竜二君!

                           【泣き虫の推進員】