門徒さんへのインタビュー               シリーズ


「私もお正信偈を読んでます」2

No.107
  鳥 羽 増 枝 さ ん       新飯田 舘
 
 「いらない口はいっぱいでるけれど、取材なんていわれるとなんでもしゃべることができネイネ。
 お寺様のすぐ前で生まれて76年。庭の草取りこそ手伝うことはあるけれど、お寺のことはなんでもわからないし私困ったわ」

 ……取材はしたことがありません。雑談ならお願いしています。
    
「私は一人っ子でそれこそ世間知らず。じいちゃん(夫)と一緒になってからは燕の工場に35年程勤めました。 必要に迫られてバイクの免許は取りました。
 昔からそういうもんだと思っていましたから特に不自由はなかったのですが、5年程前にじいちゃんが病気で車の運転ができなくなり、やっぱり不自由感はありました。買い物に新飯田の町までは歩いてでも自転車でもいけますが、ちょっと離れると不便です。そのじいちゃんも去年亡くなりました。

 1年暮らしてみると身近な人がいなくなるのはやっぱり寂しいですね。退職をして二人であっちこっちの日帰り温泉をめぐるのが一番の楽しみでしたから、懐かしさが思い出されます」

 ……
新飯田には2軒の鳥羽さんがありますが珍しい名字ですよね。

「恥ずかしい話、父親からも祖父からも我が家の話をあんまり聞いたことが無くて、ほとんど知らないんです。兄妹でもいれば誰かが聞いていたのかもしれませんが、私自身興味もなかったしそんな話を聞く家柄ではありませんでした。    
 ずっと以前、関東の方に同じ名字の親戚があったようですが、そちらのお宅も絶えたようで、今では村親戚と子供たちの4軒しか付き合いはありませんね。
 聞く所によると等運寺様よりも早くに新飯田に暮らしていたとか、昔村庄屋だった丸山家と同じ頃に越してきたとの話を聞いたことがあります。  
 ここの町名も『館(たて)』といいますからきっと新飯田の中心だったのかも知れませんね。そんな歴史があるところに生まれたのだけれど私自身はさっぱりでどうしようもないですわハハハ。  

 主人が亡くなって一番心配しているのは代替わりのことです。せがれも50才を過ぎていますから早く仏事のことはまかせたいのですが、忙しいとばっかりいってなかなか受けてくれません。この度一周忌を迎えるにこの機会を逃がしてはならないと今密かに考えています」

 ……
時節到来! まさにこの言葉が当てはまります。

「経済的なゆとりがもう少しあれば上手くいくんでしょうかね? 私自身は不満はないんですが、欲いえばきりがないかしら」

 …
私達はあれも欲しいこれも欲しいの毎日を送っています。いつも先(明日)ばかりをみて暮らしています。きっと今(今日)の幸せを忘れているようです。
                【取材・同朋の会推進員】

     

No.106
  金 子  勝 さ ん       新飯田 砂原
 
 「人生いろんなことがありますね、全く予期せぬ仕事をさせていただきました。
 大半を大手運送会社で過ごし、定年間近の56歳の時、まさかの労金(新潟県労働金庫)理事長に推薦されて5年間ほど勤めました。

 場違いの仕事といえ、実はすこし布石があり労働組合専従のかたわら15年間程非常勤の理事を務めていました。気がついてみたら私が一番の勤続年長者に。きっとそんなところからの推薦があったのかもしれません。
 いくら会議には出席したとしても実務は素人に近いものがありましたが、業務分担は役員間で決められており、私の仕事は理事会のとりまとめと社外をはじめ労金会員との意思疎通、融和が一番の仕事でした。

 引き受けて順調に推移した頃です。あの3・11東北大震災がおこりました。会社は県内25店舗だけの事業ですが、全国13社の労金があります。そのひとつ東北労金(本社仙台)に向けて急遽支援の物資を大型トラック一台分送りました。
 先方に尋ねたところ、まずは飲料水とのこと。ポリタンクに新潟市のおいしい水道水を詰め、毛布と共に発送いたしました。

 その年の8月、いまだ震災、大津波のつめ痕が残っている被災地に行って参りました。通常は入れないところでしょうが、金融団の一員として入ることを許していただいたようです。
 昭和39年の新潟地震は中学生の時でした。立っていられない程の揺れと田んぼの水が大きく波打っていたことを記憶していますが、東北地震はそのその比ではありませんでした。

 特に津波の被害は特別でした。私を含め沢山の人が映像では繰り返し拝見いたしましたが、現場に立つとテレビで伝わったこととは何段も違うものでした。特に陸前高田支店に伺い話を聞いた時は、とっさの判断で命が左右されるということがまじまじと感じられました。

 同支店は町の中でも海の近くにあり、地震発生後支店長の判断で全員車で高台に避難をしたということでした。わずかな時間での決断が職員の命を救ったとのことです。直後大津波が同店舗をはじめ街中を襲い、すっかりのまれたとのことです。上に立つものの責任と決断の重大さをあらためて痛感いたしました」  

 ……今回は昨年秋に新築された自宅での取材です。以前の家ではおばあさんの取材をいたしました。  

 「新築の家に引っ越し予定の1ヵ月程前に、おふくろが入院をしてしまいました。その後施設の方に移ったものですから、まだ一度も敷居をまたいでいないんですよ。部屋のつくりもバリヤフリーにして、車いすでも生活できるようにと工夫したのですが。
 外出の許可をもらい、新宅を見せてやりたいと思い先生にも相談したのですが無理になさらなくともとアドバイスもあり …。今はそれが気がかりです」

 ……
自分の思いだけではどうしようもないことがあります。妥協は悔しいです。しかし自己満足であっても納得できる方法がなかなか見つけられないのが私達かもしれません。
                【取材・同朋の会推進員】

     

No.105
  間 島 フ ミ エ さ ん       新飯田 上吉上
 
「私みたいな年寄りでも役に立つのだろうかしら。だって等運寺さまにご厄介になってまだ3年ばかり、じいちゃん(主人)が最初。お寺様のことなんかなんにもわからネンだいね。  
 本家のご縁もあって一緒の仲間に入れてもろうたけれどね」

 ……自宅新築後にご主人が亡くなっただそうですね

「何回か病気が進んで、最後は施設の方にご厄介になったのですが、一度も不平や不満は聞きませんでした。元気な頃は好きなことやり放題の人でしたから、それは私より皆さんの方がよく知っておられるはずですね。私のいうことなんか聞く人じゃなかったもの。
 でも縁あってそんな主人と一緒になって、家庭を営んでこれたのも有り難く思っています。

 昔のこというと笑われますが、戦中戦後の食べるものが無かった頃からの事を思えば、今は本当に極楽。
 水くみも、タキモン割りも、センダクも何にも辛いことをしなくても良い時代になりました。お陰さまで、せがれ夫婦に孫と一緒に暮らしていられるのは、今の時世では奇跡みたいなものでしょうね。

 嫁にきたての頃は、本家の農作業の手伝いが仕事でした。何でもこの2本の手でやっていた作業が、少しずつ機械化が進み、手伝いも薄くなってきた頃、近所にあった磨き屋(研磨業)の手伝いやら、工場の手伝いをしていましたね。
 そのうち子供も中学、高校と進む頃、手はかからなくなったけれど、金がかかるようになり、新飯田の国道にあった会社に勤め始めました。昔人間ですから車やバイクはもとより実は自転車にも乗れません。  

 どこへ行くにも全て自分の足で行かなくてはなりません。もちろん会社へも毎日歩いて20年程通いました。そのお陰なんでしょう、孫にラーメンをごちそうするくらいの年金をいただけます。ハハハ。
 私は山の中の生まれ、あの頃は中蒲原郡七谷村のそれも本村から外れているところでした」

 ……エエ! 加茂の上流の七谷は南蒲原じゃあなくて中蒲原ですか?勉強不足でした。今は加茂市ですが、てっきり南蒲原だと思っていました。        

「学校に行っていた頃は大きな大会や集まりは村松でした。今は廃線になりましたが、蒲原鉄道の電車が加茂、五泉間に走っていて、七谷駅から乗っていたようです。七谷村も結構広くて私のところから学校まではまだ近くて、20分くらいですが、一番上流部の人達はその何倍もかかったことでしょう。

 戦争が終わった時はちょうど10才、昨日まで使っていた教科書を、先生にいわれて墨で黒く塗りつぶしたのを今でも覚えています。    今じゃ考えられませんが、学校の玄関が男子と女子でわかれていました。もちろんクラスも男女別々、終戦後一緒のクラス編制になった時も、暫く男の子の名前はわかりませんでしたね。そんな昔人間です。笑わないでくださいね」

 ……1人でいるのはやはり寂しいからと、勇気を出して地域の集まりに出かける挑戦が始まりました。お寺の行事もそのひとつとか。待ってますよ。

                【取材・同朋の会推進員】
     

No.104
  山 田 和 則  さ ん       新飯田 川 前
 
「救急車で運ばれて2ヵ月、リハビリのため転院して1ヵ月あまり。なんとか言葉だけは少し取り戻せましたが、左半身が思うように動きません。
 妻はもとより家族、親戚、友人、職場にもすっかり迷惑をかけてしまいました。

 体調の変化に自分から気づき、妻にお願いをして救急車に乗っているところまでは分るんですが、あとは全く意識がありませんでした。
 なんでこんなになってしまったのかと悔しいやら情けないやら、焦る気持ちと、いうことをきかない体の間の中で、今はどうして良いのか全く分りません。
 とりあえず早く自宅にもどれるくらいまでの体になることを目標にリハビリに取り組んでいます。

 自宅を新築し、7月末に引っ越しを致しましたが、もちろん私は入院中で、なかなか家を見ることが出来ませんでした。
 ある日、妻が外出許可をもらってくれて、妻と子どもの介助を受けながら、ようやく新築玄関脇の部屋にたどり着いたとき、思わず大きな声でさけび、うれしくて泣き叫びました。
 

 つい2ヵ月前まではごく普通にあたり前にしていたことが全くできません。ひとりで頑張ってシャツを着替えようとしても、結構の時間がかかります。体力の低下もありますが、1日分の力を全て使い切ってしまったかのように心身共に疲れます。
 わずか30秒もかからない仕草も思うようにいかないことに、自分自身に腹が立ってなりません。時間の持て余しにもいらだちます。食事までの20、30分が我慢できません。
 どうも頭の中と体とに時間のギャップができていることに気づいていないようです。

 このようにお見舞いにきていただけると、皆さんの前ですが、感情を押さえきれずに声を出して涙を流してしまいます。
 悲しいんではないんです。悔しいのでもないんです。ただただ心の中から涙が出てきてしまうんです。
 脳の病気は恐ろしいもので、思ってもみないところに影響がでるようです。もしリハビリが進んでいくうちに、それも無くなるのでしょうか。1日も早く普段の僕に戻りたいです。
 普通ということがいかにものすごいことだと、いま実感しています」


 ……
リハビリの最中、それもまだ始まったばかり。この先が見通せない中、今この時でなければお話しいただけないと思い、無理を承知で伺いました。
 ちょうど被災直後の現地取材のようでした。
 僕の心にも共鳴したかのように、話をうかがいながら一緒に涙を流しました。

【9月10日取材・同朋の会推進員】


        
(今回、写真は控えさせていただきます)             

No.103
  山 野 井 俊 作  さ ん       新飯田 砂原
 
「もう24年も前になったんだねえ。何にも知らないうちに『推進員研修』参加者のノリといったら良いのか、勢いだけで結局京都本山まで『後期研修』に行ったのは。
 今考えれば住職の作戦にのせられたのかもしれないなあ。いろいろあったけれど、今の自分の生活には特別に変わることは感じられないけれど、お盆に親戚の棚まいりに行くと、さかんにお内仏の飾り方などの質問を受けることがあります。
 自分では気づかないけれど他人からは少しは勉強してきたように見えているようですね。自信を持って答えることはできないけれど、これも推進員の勤めかしら?」

 ……
そうか4半世紀もたつんですねえ。ほとんどの参加者が30歳代でした。 

「正信偈を声に出して読むことなど夢にも思わなかったし、ナムアミダブツなどは恥ずかしくていえなかったなあ」

 ……
あの頃は全員がそうでしたね。   

「自分は字を書くのが苦手だし、書いた字を他人に見られるのもいやですね。自分という人間の本心が見られてしまうような、裸にされてしまうような気がして。字ばかりではないですが、絵であろうと何であろうと発表するということ、他人に見聞きされることは、本当の自分を見られるようでいやですね。自分をよく見せたいという心は今でもなかなか無くならないようです。

 この寺報の巻末『徒然抄』を推進員のリレー方式の中で1年間担当したこともありましたが、この時もだめでした。
 最初は張り切って良い言葉を探しながらやってみましたが、2回目、3回目と進んでいくうちそうそう言葉が見つかりません。なんとか6回目まで勤めましたが、こういうことは得手不得手がありますよねえ。書くということ、発表するということの難しさはつくづく考えさせられました。
 思っていること、考えていることを文章にすることは、僕には荷が重すぎます。無記名でしたから自分が書いたところは誰も知らないでしょうが、やっぱり恥ずかしいです」

「でも自分が思っている自分より、他人の方が本当の僕を一番知っているのかもしれません。いくら着飾っても、皆さんの目には本当の僕が見えているはずです。それが分れば良いはずなんですが、なかなか僕の心は動いてくれないようです」

 
僕も反省することです。

「話は変わりますが、この前ふと気づいたことが。『真宗』という言い方と『浄土真宗』の違いは何なんだろうと。普段は真宗大谷派○○寺といっていますが たまたま通りがかりのお寺に浄土真宗○○寺と書かれていたのを見てふと思いました」
【真宗ミニ知識】に簡単解説


 
まだまだ不思議が沢山ありますね。『学ぶ』という言葉の語源に『まねぶ』という言葉があると聞きます。マネブが変化してマナブに変わったと。私達はまねをすることから上達していくようです。恥ずかしいことではなく、沢山のまねから少しずつ学んでいくようです。

       
      【聞き手・同朋の会 推進員】

No.102
  丸 山 照 子  さ ん       新飯田 砂原
 
「住職さんからの伝言で、自分の方から何にも話さなくていいから、ただ質問に答えてくれればと」  

 ……
それでは、年齢と体重と預金残高をどうぞ

「エエ! それはちょっと」

 ……
じゃ普通にしましょう

「普通じゃないんですよねハハハ。婆ちゃんが何かにつけてお寺さんに足を運んでいた頃、もうかれこれ25年程前になりますか、実母に代わって私が伺うようになり、報恩講やら寺お講やら春秋のお彼岸のお手伝いに通っています。
 その頃は一番年下に見えたものですが今ではすっかり「マナイタ頭」、私の性には合わないけれど、ついつい乗せられてその気になっているんですよ。
 でも今でもちょっぴり実母のことで後悔していることがあります。その頃はせがれのお嫁さんともなかよく家事をやっていましたが、少しずつ移してあげなければと思い、私の台所の用を減らしていきました。
 そんな矢先、お婆ちゃんには『私が代わってお寺に行きましょう』とねぎらいのつもりで声をかけたんですが、実母にはその言葉が邪魔になったのかなと思われた様です。その後、病気を患い結果としてはバトンタッチがスムーズいったように思われますが、今でもそれで良かったのかなあと考えさせられますね」 

 ……
今でも現役で和裁仕事を持つ照子さん 

「家でじっとしていることが多いので、お寺さんを含め外に出かけるのが大好きです。ただお寺さんでのお手伝いは苦にはなりませんが、せっかくの機会に法話が聴かれないのが残念です。三条別院に伺ってもそうですが、何のために来ているのかが分らないことが間々あります。
 せめて聴聞の時間くらいは、裏方さんも含め全員が参加できるような体制があれば良いなあと感じます。だけど立派なことを言っているようだけど、聞いたあとから忘れているのが今の私です。
 先般も、坊守さんから勧められて女性だけの研修会に参加してきましたが、案の定メモを取ることもできず、頭の中は何にも残っていませんでした。その時は満足して帰ってきたようですね。最近は等運寺さんの行事も年々聴聞者が少なくなっています。お話をしてくださる方になんか悪いような時も。そんな時は片隅に座っている私のためにだけお話をして下さると思いその場では真剣に。 でもないか、どうせすぐに忘れちゃうけどね」

 ……
屈託の無い笑い声でのお話が真を得ているようです     

「今の私にとっては、近所のおばあさんたちと防火水槽に腰掛けて、昔話を聞いているのが本当の聴聞かもしれません」

 ……
仏教という宗教は難しいと聞きます。それは経験と蓄積の上にたち聴聞に出会うからと。長い時間が必要です。だからこそ口先だけでは味わえない旨味があるはずです。

       
   【聞き手・同朋の会 推進員】

No.101
  小 杉 公 人  さ ん       新飯田 中町
 
「年をとったせいかもしれないが、最近やけに昔の出来事や、言葉に興味がでてきましたね。気づくのが少し遅かったでしょうか? ハハハ」     

 ……
僕が社会人になった頃から、いろいろ教育していただきました。     

「もう50年以上も前になったねえ。高校を卒業してすぐに新発田の方の会社に丁稚に入って。あの頃すぐに家業につかずに見習い奉公勤めにいくのが一般でしたから。一応2年間の約束でした。
 ちょうど38豪雪の時、後4ヶ月ほどを残して、あの大雪の中あわてて汽車に乗って新飯田に帰ってきたのが昨日のように感じます。
 僕は5人兄弟の下のほう。本来であれば、今東京にいる兄貴がこの家を継いでいたはず。どんな因縁かは分りませんが、親父とお袋が頑張っていたこの家に帰ってきたんですよ。
 それからまもなくです、商工会の青年部活動に参加しましたね。
 新飯田の祭りが少し衰退を始めた頃でした。神輿もかつぎ手が少なくて台車に乗せて押していた頃です。 部員が集まって今一度お祭りの復活と、僕らが小さい頃の賑わいを取り戻そうと懸命に考えましたね。
 協賛事業に、歌謡ショーや民謡流しを企画したり、そんな始まりが、今でも商工会(イベント会)の事業で続いているのには感謝しています。
 あの頃ユニークだったのが、祭りの広報に飛行機を使って近郷に宣伝したことでしょうか。たしかセスナ機でした。料金は5万円位かと思います。

 ……
その広報は聞きました。僕が高校生の頃です。 

「青年部と言えば、確か先輩二人と東南アジア研修の船旅で、一ヶ月程行ったこともありましたね。今では考えられない悠長な時代でしたね。
 僕の親父は、少しカタッパナできびしかったですが、私生活にはあんまり口出しはしませんでした。
 そんな親父の最近分ったことですが、結構文化的な活動にも目を向けていたんだと知りました。
 昭和39年の年に実施された有願歌碑の建立の際も、歌碑となりの築庭にも一役かって出ていた様です」

 ……昔は不言実行の人達がいましたね。特に普段気難しい方には。     
「いつのまにか僕も年をとってしまい、親の年齢に近くなりました。最近仲間が集まれば病気の自慢話(?)ばかり、あたり前のことだけれど、段々好きなこともやれなくなります。
 それでもまだ、今のうちと思い毎日考えています。だって僕の人生これからですもの」  

 ……『光陰矢の如し。少年老いやすく学成り難
し・・・ 』
 幼少より学問を志しながら、そろそろ老いを迎える年齢になっても、未だ大きな成果を果たせずにいる。もはや残り少ない人生だからこそ、ほんの瞬きする 刹那ですら、時をおろそかにしてはならないのだといわれます。
 人生の終盤だからこそ実力が発揮されるはずです。

       
   【聞き手・同朋の会 推進員】

No.100
  渡 辺 キ ヨ  さ ん       新飯田 横町
 
「なんでこんなに元気でいられるんだろう?」

 ……それは僕が聞きたい。

「20才で嫁に来て、それはそれは何にも知らないところに。その頃は我が家はまだ畳屋をしていて前は店、裏の方は畳床を作る工場でした。よっぱらワラ運びをさせられました。 四、五年した時でしょうか、畳屋は義父と職人に任せて、裏の工場で商売替えのプレス屋を始めましたね。それが現在につながるきっかけでした。

 
……職人さんが店先で畳を作っているのはまだ少し覚えています。

「主人は私がいうのは何だけれど、不器用で職人向きではなかったわね、口べたでお世辞も言えなかったけれど、当時は黙々と稼いでました。私は家にいるより外に出ている方が好きで、納品やらの外回りで、よくあんな重いものをもって運んだかと思うと、今では考えられません。

 子供が生まれ、少し落ち着いてきた頃からでしょうか、新飯田地区でママさんバレーボールチーム(ひまわりクラブ)が出来、一番に参加したように思います。まだまだ初心の30代、夕飯の片付けもそこそこに乳飲み子を連れて練習にいきました。 バレーの仲間では一番の年頭でしたので、姉さん気分で私のことを呼んでくれましたね。 メンバーも良いひと(?)ばかり、のむ(酒)うつ(アタック)かう(若い燕?)、三拍子揃っている人達ばかり。

 試合や大会終了打ち上げはもとより、夏忘れ忘年会と、その頃の青年チームの皆さんと楽しく過ごしました。あれから50年あまり、今では10番目(9人制バレー)の選手ですが、まだユニフォームを脱げません」

 
……近頃耳にするマスタースポーツのバレー版ですね。

「私は、とにかく何でも良いから体を動かしていれば満足する性分の様です。これでもう少し頭がついていてくれれば、ハハハ」

 
……大台を超えての活躍はお見事です。好きなゴルフでは沖縄まで行くという熱のいれよう。

「人間動けるうちが花、食べて飲んでおしゃべりして、いずれできなくなる時がきます、それももうすぐそこに。それまではまだまだ続ける覚悟ですよ。
 でも私は女に生まれて良かったと思っています。女であるが故にこの地に嫁ぐことができ、そしてたくさんのお友達を作ることができました。もし男に生まれていたら絶対にこんな人生は無かったことと思います。
 優れたものは何ひとつもっていませんが声をかけていただけるうちは二つ返事でついていきます」

 
……女性という性を十二分に活用しているような渡辺さん、ひとりでも生きていける心構えは『女、嫁、妻、母』がもっている固有の財産です。 男はやっぱりだめだなあ。

       
   【聞き手・同朋の会 推進員】

No.99
  星   愛 奏 ( あのん )ちゃん       新飯田 川前

     取 材 協 力   星   和 美  さ ん (祖父)
 
「『アノン、5才!』 
すみません私が代わって通訳します ハハハ(和美さん)」

 ……今回は『忙中閑話』最年少記録の取材です。

「いつの間にかこの子(孫)が住職さんと一緒に正信偈を読むようになってしまいました。もちろんひらがな読みですが、2年程前から月日参りの際に私といっしょに座っていたら、住職さんから声をかけていただいたのがきっかけでしょうか。我が家は私を始め全員が勤めで日中はいないものですから、お参りは夕方の6時前後にお出でいただいています。妻も倅も帰っていないことが多くて、ついつい私と一緒に座らせたのが今日までつながっていたようですね」

 ……家庭の事情とはいえ末恐ろしい。

「そんなたいそうなことじゃないんですよ。多分住職さんが子供さんが好きなんでしょうね。例え方はおかしいけれど、動物が好きなひとには動物のほうから近寄ってきます。逆に苦手なひとには動物のほうも…。きっとまだ無垢の心しかもっていないこの子も本能にしたがって住職さんに近寄っているんじゃないのかな。
 お数珠をもたせてもらったり読む速度も合わせてもらったり、本人は遊び相手のひとりに映っているのかもしれませんね。
 それが証拠に当院さんや坊守さんの時にはあまり関心を持っていませんもの。そんなこといっちゃだめなのかハハハ」

 ……真実だと思います。 

「いつまでつきあってくれるかはわかりませんが大人になって思い出してくれる時があったらきっと心に大きなものが残っていると思います。私もそうでしたが父母や学校の先生より近所の大人たちや、自分の好きなことを一緒になって遊んでくれた人達の影響がいまだに残っていますもの」 

 ……新飯田にご縁があって婿に来てから31年、今では地区公民館活動にはなくてはならない存在に。

「初めはご近所の人達の顔も名前もまったくわかりませんでしたが活動の仲間に入れてもらって少しずつわかるようになりました。そうしたらこの忙中閑話に出演される方々の家族がわかるようになりました。これは有り難かったですねホント。できたらずうっと続くといいですね」     

 ……お一人でもこの頁のファンがいることは励みになります

「しかし世間は狭いっていうけれど本当です。以前職場の上司に新飯田の円通庵の話をされてビックリ。その方の叔母さんが最後の庵主さまで、子供の頃、今から五十年程前に円通庵に泊まっていったことがあると聞かされました。世の中いたるところにご縁があるんですね。まだまだ地域に貢献できませんがご縁があれば頑張りたいと思います。できればこの愛奏が大きくなっても一緒にお勤めをしてくれるようなすてきな家庭でありたいと思います」

 
……ご縁あっての人生、良いことも悪いこともいやなことも好きなこともすべて因縁果で結ばれているのが私達です。


       
   【聞き手・同朋の会 推進員】

No.98
  関   眞 佐 子  さ ん       新潟市西蒲区 中之口
 
「人生の70%は中之口の血が巡っているはずなんですが、いまだに新飯田のことばかり頭を巡っているんですよ。友達もなぜかしら新飯田の人ばかり。きっとこのまま地元のことより新飯田のままで死んでいくのかもしれません」

 ……
新飯田川前に嫁いで間もなく、新飯田橋たもとに新工場を新築。その宿直をかねて中之口工場で子育てが始まりました。

「でもどういうこだわりか、子供たちは保育園から中学校卒業まで新飯田の学校を出たんですよ。私もまだ若かったんでしょうね。住職のお母さん、当時の園長先生に頼まれて保育園の会長をしたときは、土手のバス停の製作に皆さんと一緒に活動したことが昨日のようです。

 そんなご縁もあってか主人が40代で亡くなった時、義父に相談をして山の下(新潟)のお寺さんから等運寺さんにお墓を移しました。義父の出身はそちらにありましたが、昭和の20年に今の仕事を始めてからは、きっとこちらに骨を埋める覚悟があったのではないでしょうか。私のひと言がご縁となったようですね。

 正信偈のお勤めに関心を持ったのも新飯田の友人が最初かもしれません。主人が亡くなった頃、私もそうでしたが、彼女も車の免許はなく、わざわざ自転車でこの中之口まで足を運んでくれて『私、少しお経を習ったから』と正信偈をあげてくれたのをお覚えています。もう30年以上も前のこと、残念ですがその方も若くして亡くなりました。

 長生きがいいのかどうか最近わからなくなりました。若くして亡くなった人達はいつまでも時が止まっています。そして思い出す人達もたくさんいるでしょう。私のように長く生きていると、友人がひとり二人と欠けていくそのことが寂しくてしょうがありません。

 おかげさまで、孫もこの会社のあとを次いでくれる歳になりました。家庭的には恵まれているかもしれませんが、私の心の中はやはり今まで一緒に生きてきたたくさんの友人たちとの思い出が一番大切に思えます」

 ……
僕も忘れかけている人達の名前もポンポンと口からでてくる眞佐子さん。

「もうずいぶん前になりましたが、蓮如さんの御遠忌も、親鸞さんの御遠忌の時も本山にお参りをさせていただく機会がありました。今思えばあの時決断して良かったと思います、あの時でなければ行けなかったかもと感じています。

 今でなければできないことがたくさんあるのに後におくってはだめ、何をさておいても実行することが悔いを残さないひとつになるのかもしれません。それはきっと先に還っていった主人や友人たちの遺言のように思えます」

 ……自宅の隣とはいえ、今も会社に籍をおく毎日。お義父さんからご主人、そして息子に孫、四代にわたってサポート役を果たしてこられた元気の秘訣は、友人というビタミン剤かも知れません。

       
   【聞き手・同朋の会 推進員】

No.97
  玉 木  亨  さ ん       新i飯田 下町
 
「子供の頃は新飯田って聞くと、ものすごくおっかないところっていうか、キカンボウが集まっている感じがしていました。
 僕もきっとキカンボウだったのかもしれませんが、今思えば高校生頃かな、町の神明宮でグループでけんかをしたこともありましたねハハハ。でも新飯田はあんまりいいイメージではなかったことは事実ですね。

 そんな僕が縁あってここに婿に来るなんて人生わからないですよねえ。でも来始めの頃はきっとびくびくして過ごしていたのかもしれません」

 ……
加茂市後須田から21才の時に最愛の奥さんと結ばれた玉木さん。昔は結構ヤンチャでしたね。

「結婚前は暴走族まがいなこともしてみたし、トップはできませんでしたが最後尾にくっついていましたね。他人にはいえない懐かしい思い出ですよ。

 でも僕がこの新飯田で過ごせるようになったのは消防団のお陰かな。結婚して1年くらいした時かしら、町内の団員の方からお誘いがあり、断る理由も無いのでお受けしました。当時の消防団は1年に数回、集まれば酒を飲む程度の会でした。新団員ですから、ただいわれるままに過ごしていました。
 もちろん有事(火災)の際には一生懸命活動はしましたが、春秋の演習に参加するくらいのんびりした時代でしたね。

 そんな中、同年代の仲間ができ、消防に限らず町内の行事や地域の行事に度々参加をするようになりました。僕にとっては仲間づくりの原点がそこにあったんですよね。おこられるかもしれませんが消防団は仲間作り地域づくりの原点のような気がします。使ったお金と時間は無駄ではありませんでした。

 勤務先でもそうですがだんだんと個人主義が美化されて一堂に会しての忘、新年会もなくなりました。家族や自分を大切にすることはいいことだと思います。 しかし地域でも会社でもどんな人がいるのかわからないのではダメだと思います。自ら飛び込んでゆく勇気はありませんが、きっかけには進んで参加すべきかと思いますね。特に若い人達には」

 ……
そういう考えを評価する人が少なくなりました。

「そうそう先日ご近所の葬儀にあい、気づいたことがことがあります。
 通夜の導師はまだ30才前後の若い女性。最初は大丈夫なのかしらと思っていましたが、一段高いしっかりとした声で、それも私達が習ってきた経本通りにお勤めが始まりました。僕も思わず声を大きく唱和をしました。初めてでしたこんな通夜の正信偈は。

 そこで僕はふと思ったんです、塚本さんは本山の教えをストレートに伝えてくれてたんだって。学校で全国の小学生が同じ歌を歌うように、本来はどこのお寺さんでも同じはずです。その日は清々しい心が残りました」

 ……
最後に玉木さんはこっそりと打ち明けました。

『消防の退職慰労金で仏具とダイヤの指輪を求めました』

 ……
両極(?)を一緒に手にいれましたね。

       
   【聞き手・同朋の会 推進員】

No.96
  関 根 一 美  さ ん       新i飯田 古町
 
「義父が亡くなってもう一年、仏事は全てまかせっきりで過ごしてきましたがもうそんなわけにはいきません。 3年程前から少しずつ代役を始めてます。ためた寺報も私の分はこれだけ、知らないことだらけなので結構ためになりますよ。
 漢字ナンバー(クロスワードの漢字判)が好きでやっているんですが、結構仏教用語がでてくるんですね。そんな興味本位のこともあり言葉には少しのめり込んでいますね。そんな私でも良かったんでしょうかしら?」

 ……そういう方ばっかりを取材しています。

「見た目は丈夫そうなんですがこれで結構大変なんですよ。義父の介護を始めた頃です、心臓の発作でたおれてしまい家族に大変迷惑をかけました。今は体調はもちろんもどりましたが、いつまたと思う気持ちがまだ抜けきれません。
 その頃は『自分はいつ死んでもいいから』と考えていましたが、本能というんでしょうか命の叫びというんでしょうか、苦しい中で無意識のうちに娘に携帯をしていました。おかしな話ですよね、自分の意志に反する行動をするなんて」

 ……自分のものと思っていた命が、実は命のものだったんですね。

「私の中に二人が住んでいるようですね、私と私の命と。以前から私は少し潔癖性の癖があり、ペーパータオルで拭いてからでないと座ったり手をかけたりができなかったのです。うがいや手洗いはもちろん完璧なまでに
予防と防御に努めたんですよ。
 それがある時万全を期して予防注射しているにも関わらずインフルエンザにかかってしまいました。がっかりするやら情けないやら、自分が今まで目指してきたことは何だったのかしらとさんざん思いましたわ。
 その時から人には好むと好まざるに関わらず来るときはくるんだよなって思いました。
 それからです私の中の三人目の自分が『まあ いいさ』って声をかけてくれるようになってきました。そのずぼらの私の出現によって今は心のバランスがとれているのかもしれません」

 ……災難や死に対しても、よけて通るよりいっそ出会う時はあったほうが。

「そうかも知れません、出あうことをびくびく考えるより、もっと前向きな生き方がいいのかも。そんな人生が歩めたらステキでしょうね。まだまだ閉じこもりがちな私ですがそれも大切な私の人生です。今日は取材をうけて『正信偈を読む』と『詠む』の違いが少しわかりました」

 ……私達は大きな船に乗っている旅人と聞きました。先に乗った人と後に乗った人の違いはありますが、残念ながら同じ船の中、先輩は後輩に食堂やトイレの場所を教えるのはあたり前、その案内係の先頭にいるのが寺の活動だと思います。到着は一緒です。

       
   【聞き手・同朋の会 推進員】


No.95
  小 林 正 樹  さ ん       新i飯田 下町
 
「今はカメラと共に日々過しています。30年程前は我が子の活動を中心に撮っていましたが、その時は父兄としての責任もあり、思うようにカメラを構える事もできませんでしたが、今は対象が孫の時代、遠慮なくシャッターをきることができます。
 しかし時代の変化も早いものであの頃はフィルムを入れての撮影でしたが、今日ではご多聞にもれずデジカメ、機材さえ揃えばあまりお金もかからず、趣味としては満足ですね。しかし段々なれてくるにしたがってやはり良いものが欲しくなります」

 
……念願かない今は一眼レフのカメラで挑戦中。

「孫のクラブ活動に、それも大会があれば勇んで出かけて行きます。
 しかしスポーツを撮影するのはやはり難しいですね。特に室内だと明るさが足りなくて、速い動きにはなかなかカメラも自分もついていけず、思い通りのものが撮れません。初心者の悪い癖で、そういうことはすぐ道具のせいにしてしまって自分の腕前のことはタナに上げています ハハハ」

 
……僕も形から入るほうだから、その気持ちよくわかります。

「長い間写真撮影をやっている方を先生にして、いろいろなことを勉強してますが、頭では理解してもなかなか指先が言うことを聞きません。
 写真の展覧会など出かけては作品を拝見したり、雑誌を見たりはしていますが、あたり前ですがやはりプロや上級者のようには上手くいきませんね。
 しかし、長い間にそれなりの進歩もありました。習うより慣れろでしょうか。回数を挑戦していかなければダメのようですね。先生の話でも『被写体は身直なところにたくさんある』といわれます。
我が家からせいぜい500m、その中から面白いものにレンズを向けることができるかどうかにかかっているようですね。
 良い被写体を探し求めることよりも、足下にあるものに気がつくことができればきっと満足のいくものが撮れるのかもしれません」

「我が家には第52号からの寺報がとってあります。なぜかしらと思い考えてみたら、その頃から現住職に勧められての真宗講座に参加していたことを思い出しました。
 もちろんそれ以前の寺報もいただいているのでしょうが、見当たりません。なにかしら感心があれば大切にするのでしょうが、そうでなければ…。
 長い間いろんな話を聞いてはきましたが、カメラと同じようにやはり身に付くことは稀のようです。しかし良い講師、良い先生の話より、子供や孫、身近にいる人達の言葉に気づくことが大切に思えます。
 お寺を通して学んだことはそんなことでした。なぜなら答えはきっと無限にあるはずですから」

 ……拝見した25年前からの寺報には、住職の嘆きの声と希望の思いがつづられていました。いずれもいまだ色あせることなく。

       
   【聞き手・同朋の会 推進員】

No.94
  松 永 美 知 子  さ ん       新潟市 西区
 
「とっても良いご縁をいただきました。でも偶然とか、奇跡はあるんですね。15年前に実母と同居していなければ、実母の生家や嫁ぎ先が真宗の寺院でなければ、そしてインターネットを開いていなかったら等運寺さんにはめぐり逢っていませんでした。

 母も生前から言葉にしていましたから私もどのようなおくりかたが一番かと常々考えていました。
 それまでもたくさんの寺院のホームページを拝見しましたが、それはそれはプロの制作による立派なものばかり、どれもこれも引き込まれるものばかりでした。でも、等運寺さんのHPは手作り感たっぷり、さらにユニークな言葉で温かいものを感じました。
 そして4年前の春、とうとうHPを開き、付属のメール欄へ勇気を持って書き込みをしたところ早速返事が来ました。 
 それからです、いろいろな問題を相談し、金沢に住む弟と共に6月に寺に訪ねる事となりました。

 お会いをしお話をしたところ、思った通りの人柄にすっかりほれてしまい、イザとなったら是非にと決心しました。母も喜んでくれました。生家の寺院、嫁ぎ先の寺院、いろいろなしがらみの中で等運寺さんにご迷惑がかかるのではと一番に心配をしていましたから。 そんな喜びもつかの間、翌年の秋に母は亡くなり早速に等運寺さんのお世話になった次第です」

 ……
真宗の寺院としては当然の応対をしたまでの事と思いますが?

「私も小さい時から寺の事は内側から見てきましたが、真逆の感じをうけました。その事が嬉しかったんです母も私も。住まいは新飯田からは離れていますが、心は同じところにいます。母も『無量寿』で安心している事と思います」

 ……
住職の『どんな相談でものります』のひと言が後押しをしたようですね。

「今は新潟市の住人になりましたが、初めて新潟に来てみたのは確か新潟博覧会に兄がつれてきてくれた時でした。昭和41年私は高田の高校生、あの頃はグループサウンズ全盛のときで、通学の車両の中も毎日そんな話題ばかりで盛り上がっていましたわ。当時高校でそんな事が話題になって…。でもやっぱり私は青春期や子育期を過した高田の町が一番好きかな」

 ……現在は体調の事もあり、お母さんがお世話になった施設の庭の管理や障害者施設のボランティアに精を出している毎日。

「『ありがとう』のひと言がうれしくてやりはじめた事なのですが等運寺さんからいただいたご恩を少しでもお裾分けをしなければと思っています」

 ……
女子高生時代大好きだったワイルドワンズの12弦ギターの湘南サウンドが、今でも美知子さんの心に流れているようです。どんなに時代が進んでも人と人の交わりの中で私達はくらしているんですね。

       
   【聞き手・同朋の会 推進員】

No.93
  渡 邊   勇  さ ん       新飯田 砂原
 
「早いもので洗濯屋を開業してかれこれ50年以上もたってしまいました。 私の本意ではなかったんだけれど、中学校を卒業してすぐに新潟の中規模のクリーニング店に就職、1年程勤めましたが会社の雰囲気が合わなかったのかやめました。

 間もなく小規模同業者に弟子入りして6年間、年季奉公も勤め終えた頃、実家(東萱場)に配達営業しておられた新飯田の郵便局員に勧められてこの地に開業をいたしました。昭和38年かな?
 まだ23才でしたね。始めは小さな小屋をお借りしてわずかな改装してもらい、一番下の弟に手伝ってもらいがんばりましたね」

 ……僕がまだ小学校の頃ですね。何となくお店の形を覚えていますよ

「そうかね、おめさんも古い人間だねハハハ。あの頃は世の中がそうだったんでしょう、毎日が忙しくて、代官島はもとより、荻島辺りからも持ち込んでもらいました。今は車の時代ですからたいした距離ではありませんが、当時はずいぶん遠くに感じましたよ。
 女房をもらい順風満帆とはいいませんが充実した毎日でしたね。その大切な女房が…、もう4年になろうとしています。
 縁あって等運寺さんにお世話になり、本当の意味で新飯田の住人になった気がしました。
 家持ち(分家・初代)の性でしょうか、どこで終わるかわからない人生でしたが、お内仏を求め、墓を建てることでやっと行き先が定まった感じです。しかし亡くなって初めてわかったことですが人生は二人三脚、女房のありがたみが本当にわかりました。

 朝からひとりで何でもしなくてはダメなんですから。一番困ったのはその年の税金の申告でしたね。私は仕事のことしかわかりません。帳面はもとよりお金の工面も一切女房任せ、何をしたら良いかまったくダメでしたね。
 何人かの方々に助けてもらいながらなんとか切り抜けました。70の手習いではありませんが、帳面付をは少しずつ頑張っています」

 ……大変でしたね、家業での仕事は分担でまかなっていることが多いですから、どちらかが機能しなくても動いていきません。

「本当ですね、身の回りからなくなってしまって初めてわかる事が分りました。今まではあたり前と思っていたことや、当然と思っていたことが有り難いと思うことにようやく気づきました。少し遅すぎたでしょうかハハハ。
 私は職人としてカタッパナな人間ですが、今までの人生で見えなかったことが少し見えてきたような気がします。大切なものと引換えに、いや妻はそれを残していってくれたのかもしれません」

 ……誰でも不幸にはあいたくありません。しかしそれに出会わなければ気づかない事があります。きっと流した涙の数だけ人に優しくなれるのかもしれません。
       
   【聞き手・同朋の会 推進員】

No.92
  小 野 塚 シ ズ  さ ん       西蒲区 潟浦新
 
「いつも読ませてもろてますよ。知っている人がでると懐かしいしね。昔の事を思い出しながら楽しんでいますよ。もうかれこれ40年程も前になるね。斜向かいの小野塚(源兵衛)さんの婆ちゃんが声をかけてくれて、10人程の母ちゃん達が集まって等運寺様の前住職から来てもろうてお経会が始まりました」  

「檀家の人もそうでない人も、皆和気あいあいに私は本当に楽しかった。お経(正信偈)も覚えられたしお寺様も親切に教えてくれたし、毎月いっぺんずつ宿を変えながら10年の余も続いたろうか」 
 「お寺様も大変だったろうねえ、どんなに荒れても必ず来てくれなした。雪の日もコザクようにして…」

 「2、3年過ぎた頃だったろうか、皆がなんとか声に出してお経が読めるようになった頃、お勤めの後に習字の勉強が始まったんだいね。有り難かったなあ。のし紙や金封に字を書く時は誰かに頼まなければならんかったんだけれど、実用習字と言うんでしょうか上書きと名字名前だけの簡単な教室だったけれど一番ためになった」

「『オノズカの小の字は真ん中の棒をもうちょっと長く書くとバランスが良いね』なんていって笑いながら教えていただきました。   
 そのうち、お経会から『潟浦同朋会』という名前を付けていただきました。同朋会なんていう言葉は初めて聞いたもんだから何が始まるんだろうかと内心びくびく、でも取り越し苦労でした。今までとまったく変わらない活動が続きました」 

「そんな中、わざわざ当時の中之口村の広報誌が取材にこられ、掲載されたんですよ。良い思い出です。継続してこれたのは、お寺様が帰ってからの雑談会があったからです。夜の10時過ぎまで、ああでもないこうでもないと取り留めのない話が一番楽しかった。  
 嫁のくどき話でしょうか、亭主の悪口でしょうか、農作業の相談でしょうか。いつもにぎやかに時間の経つのも忘れて次の会を約束したものでした。
 そんな同朋会も住職の体調を気遣ってか、ミカンを持参して休会のお願いに上がりました。残念そうなお顔でしたが会員も少しずつ減ってきたり、高齢の方々は参加できなくなったりして、はじめた頃は夜遅くまで元気でしたがやはりよる年には勝てないみたい、ちょうど潮時だったかもしれませんね。
 その後も私達だけで集まりはしましたが、やはり雑談だけの会では続きませんでした」      

 
……同朋会のお手本のような運営ですね。お寺中心ではなくてご門徒が主になる活動は本則だと思います。

「おかげで今でもなんとかお勤めが出来ます。楽しかったあの頃が少し身に付いているようです」

 
……充実をした人生ですとシズさんは語られました。豊かな社会とは豊な心で死んでゆける社会だと聞きました。その一人かもしれません。
          【聞き手・同朋の会 推進員】

No.91
  小 原 文 明  さ ん       新飯田 砂原
 
「始まりは青年特伝からでしたね。その講座の2回目に参加をしたのが真宗にふれるきっかけでした。確か会場は戸頭の長願寺さん、わたしは等運寺さんの檀家ではありませんから寺に足を運んだことはありません。まして同じ浄土真宗とはいえ他の寺に行くということは考えられませんでした」

「その時は当院(現住職)に勧められ仕方なく参加したのかもしれません。友人と一緒に、確か先頃亡くなった関根豊平さんも一緒におられたような記憶が。いずれにしても普段数珠など持ったことがないものですからあわててその辺にあったおみやげ品をもって参加したような思い出があります。まだうぶだったんでしょう。心はドキドキしながらも顔は平静を保ち、周りの人のやる事を横目で見ながら過したようです」

 
……僕も青年特伝に参加した事がありましたが最初は『僕は絶対に洗脳されないぞ』そんな気持ちが頭の中にいっぱいで・・

「お寺のイメージはあん
まり良いものはなかった。何かことあるごとにお金が絡む、そんな薄っぺらな印象しかもっていませんでした。ただ一緒に参加した関根さんは淡々としておられた。今から考えれば普段の自然体でおられたんだと思います。 私にはそれが不思議でならなかった。数ヶ月おきに会場を変えながら開催されました。私もあまり休む事無く参可を続けました。

 講師は青年特伝同様新潟小針の広沢先生、テキストは確か歎異抄です。何年も聞いてきました。何にも覚えていませんが、そのテキストの二行か三行しか進まなかった事だけは覚えています。毎回冒頭の部分を読んでその一字二字の言葉を取り上げての講義だったようです。よくいやにならずに参加したものだと今更ながら感心します。

 それから8年程たってからでしょうか、本山上山の推進員研修会が始まりました。まさかそんな布石があるとは思ってみませんでしたが なぜか初心のイメージとは違い、ただすんなりとのせられました。
 今でもそうですが宗教の話(人生の目的)を同世代の友人たちと語るのはまだまだ抵抗があります。この先もきっとそうだと思いますが、その頃一緒に学んだ人達とは心が許せます。
 大切な事とは思いますが腹を割って考えをのべるにはまだ肩身が狭い、そんな私も最初同席をした関根さんと同じ年齢になりました。あれから30年、今の私は自然体でいられるでしょうか?」

 ……僕も還暦を過ぎ若い方々には爺さんと映っている事でしょう。インタビューを通して今一度押し入れにあるテキストを開いてみます。
《あらためて秋の夜長に 嘆異抄 青白く光る  あの頃は青春》

          【聞き手・同朋の会 推進員】

No.90
  浅 野 純 子  さ ん       新飯田 舘
 
「1年間に両親2人を送ってずいぶんと大人にさせられました。昨年の母は突然でしたが、今年の父はその生きざまに付き添いながら送ることが出来ましたが、それでも今になってみればなんと時間の短いことでしたでしょうか」

 
……いつか死んでいくということは頭の中ではわかっているつもりですが目前にあるとやはり動揺しますね。

「以前はご近所をはじめ親戚肉親だけで一連の送り方があったんでしょうが、今では葬儀屋さんに全てお任せの状態。昔からのしきたりを教え伝えていく人もだんだんいなくなってしまいました。25年程前の祖父の時はまだそれが残っていたような気がしますね。時代の流れという言葉だけです。
 ませるようなことではないような気がしますが、私自身じゃあ何が出来るかといえば何にも出来ないんですけれどねハハハ。

 あれだけ気丈に振る舞っていた父、最後まで読書と晩酌とタバコはきらすことがなかったけれど、2度目の入院の時は、私や妹に迷惑をかけたくなかったんでしょうね『入院するかね?』って聞いたら素直にうんと返事をくれました。何回も救急車をお願いしてご近所にもずいぶん迷惑をかけましたね。そんな父が亡くなる少し前に中町の自宅の土蔵の鍵のありかを話してくれました。大正時代の火災以前からの建物ですから、もう扉は閉まりませんし、蔵の中はもうゴミ同然の古くさいものしかないのですが、きっと後を頼むということでその話をしたんでしょう。託されることの重みをもって実感しました」 

 
……世の中の移り変わりが激しすぎるのでしょうか、大切なことを伝えていくことが疎かになってきているような気がします。

「高校で古典を教えていますが、授業で生徒たちに理解してもらうための話に苦労しています。 
 漢文で『左右』というのが『側近の家来』を意味するのに、水戸黄門の助さん格さんを引き合いに出すのですが、生徒たちはその番組自体を知らない。もちろん子供たちに興味のある番組ではないけれど、では『海女』を理解してもらうためと思い、去年の話題の『あまちゃん』を出しても反応無し。ネットやラインでしか情報の手段が無いせいでしょうか? それとも忙しすぎるのかしら。家族一緒に見るテレビもあまりないようです。
 家庭では世代間を超えた話題が足りていないような気がします。きっと私の授業も生徒たちには馬鹿なババアが何か言っているとしか映らないと思うけれど、私は好きで入った世界です。現代にも使われ通じている言葉や仕草のルーツのひとつの手段として古典を語っていきたいと思います」
 
 
……今の高校生も僕らの時代も、基本的にはあんまり変わっていないことに嬉しさとがっかりが交錯しました。歴史はらせん状にすすむと聞きました。多様な考え方が出来る人間に成長してくれることが願いです。

          【聞き手・同朋の会 推進員】

No.89
  宮 本 ミ ヨ  さ ん       南区 月潟
 
「悪たれ口なら話が出来るけれど取材を受けるなんてワタしゃできねおね。でも100歳になったらいいかもねアハハ」  

 
……じゃあ100になったら発行しますから今はその前ぶりでいかがでしょう。

「建具屋に嫁いで何にも知らないうちにすっかり年ばっかりとっちゃって、今は気楽に生きているけど、父ちゃん(主人)が22年前に倒れてた時はまだ私も50代半ば、あん時は目の前が真っ暗になるほどたまげたね。これで私の人生も終わったなっと思いましたよ。
それからは店の奥にベッドおいて、あたり近所の人が来てサ、一緒になってしゃべったり笑ったり、幸いにして半身不自由だったけれどなんとか頭と口がきいたから二人三脚で看病を続けてきましたね。病気にならなければせがれも後を継いだのかもしれないけれど今になって考えるとこの仕事もちょうどいい潮時だったかもしれないね。時代の変化っていうんでしょうか、家の造りも変わってきて我々の仕事もずいぶん少なくなってきたようです」

 
……確かに従来の家とずいぶん建て方が変わりました。唐紙や障子戸が無い家がいっぱいに。

「亡くなって10年程になるけれど、うちの父ちゃんは幸せだったと思いますよ。だっていっつもけんかする相手がそばにいたんだから、ハハハ。せがれとも相談して好きな酒は毎日のように飲んでいたし、5人の子供たちがかわるがわる外に連れて行ってくれたし、南は九州北は青森まで、病気の主人とワンカップを一緒に、私が出れない時は連れて行く子供にもよく言いました『行った先でどんなことになっても絶対に後悔はしないから、かわりに面白かったよって言うんだよ』って」

 
……すっかり覚悟が出来ていますね。

「面倒を見る方も大変だけど本人が一番せつないはずですから。口に出したことは無かったけれど、それだけはずっと感じましたね。でも私も生来のボンクラだから、あの頃は好きな日本代表のサッカーの試合があるとベッド脇のテレビを夜中じゅう見て応援していましたよ。キーパーの川口選手は格好良かったね、今は遠藤選手のキックの曲がり具合が好きかな」

 
……エエエ!僕もサッカーは好きだけれど、そんな話が出来る最年長者ですね。

「アルビの試合にもずいぶん連れて行ってもらったし、でも新潟はダメらね。ちょっと上手くなるとみんなよそに行ってしまう、張り合いがないこと」

 ……そのとおり。

「高校野球も大好きだけど、今は孫たちが連れて行ってくれるお城巡りとお寺巡りが一番かな。中に入って一番先に目に入るのが、やっぱり木の材質と組み具合なんだよね。それも職業病ですかね」


※喜寿を超したとは思えない 宮本さんのお話に当ペンも脱帽です。人生80年いや100年をまさに走り続けている姿には感動ものです。

          【聞き手・同朋の会 推進員】


No.88
  山 崎   昇 さ ん       新飯田 下中村
 
「お寺様が断れないお願いがありますなんて優しい声でいうから、またお金の話かと思いびくびくして話を聞きましたよ」

 
……ちょっぴり寿命が縮まったかしらハハハ。 
「いやあ 笑い事でないよこんな年寄りに。いつの間にかすっかり年取ってしまって若い時は誰が50才になるのかと思っていたら60もとっくに過ぎて、あと2、3年で70才、コッテ爺(じ)さになってしもうたねえ」

 
……コッテ爺さ! いやあ久しぶりにそんな言葉を聞いたなあ。

「俺も久しぶりに使ってみたなあ。でも昔からそういって年寄りをよんでいたよねハハハ。意味はあんまりわからないけどなんとなく。何となくわかるでしょう?」

 
……口に出して使った記憶はないけどその言葉は何となくわかります

「ねっ、そのくらい俺も年取ったんだいね。せがれに生まれて百姓を続けて来たけれど、あんまりいいことなかったねえ。 それでも若い頃は希望に燃えていて、今さかんに政府が奨励している生産組合のようなシステムを仲間うちで一生懸命議論もしたことも度々あったけれど、結局かたちにはならなっかたなあ。
 耕作面積の違いや資金力の違い、最後は各々の覚悟の違いがあったからなあ。残念だったけれど誰もせがれを百姓に育てなかったからねえ。俺もだけれど」

 ……新飯田の中で何人の若い人が農業に従事しているのかしら。

「う〜ん、俺達の子供の年齢くらいの若い人は片手(5人)もいないんじゃないかな。俺もそうだったから他人のことはいえないけれど、百姓と勤め人の二股ではどっちも本気になれなっかたんだねえ、残念だけれど」  

 
……農家に関わらず商店や職人の世界もそうなりましたね。
「その道にまっすぐすすめば必ず開けるものがあるはずなんだけれど、今となってはねえ。近郷の若い人達がやっている今の農業をみているとそれを感じるなあ。


 このまえ等運寺の当院と話をして少し気づいたけれど、俺が知っているかぎり今の住職も先代も先々代もお寺以外の仕事をしたことが無いような気がする。特別に豊かでなかったかもしれないけれどやっぱり自分のやることをきちんともっている、やらなければいけないことをちゃんと守っているように思えたよね」

 
……その生き方が大切なのかも、僕らはよそ見ばっかりしながらいつも比べて生きていますから。 

「そうだよね、いままで一度でも比べてこなかったことは多分無かった気がする。まあそれが頑張る原動力にもつながったのかもしれないけれど」

 ……反省の無い人生なんかきっと無いと思います。だってたった一回しかできないんですもの。
 久ぶりに山崎家に伺い気づきました。そうだ、昇さんのお父さんから僕の『忙中閑話』が始まったんだ。

          【聞き手・同朋の会 推進員】


「コッテ爺さ」・・・業(ごう)の垂れ流しジジイ → 「業(ごう)ったれジサ →
  コッテジサ と変化したものと思われます。 (編集部)


No.87
  大 野 桂 子 さ ん       新飯田 舘
 
「取材にこられると連絡があってからは毎日心配で寝えらんねで寿命がちぢまったいね」

……いっそのこと早く楽になるかね。 

「いやあ、まだ心配の種がいっぱいあるから後もう少しここに居たいね。嫁いで57年、子供に恵まれて56年、主人と別れて55年程に。 貧しい中でも沢山の人から助けてもらったお陰で今日までなんとか過してきました」

……ご苦労がありましたね。
「それは誰でも同じでしょう。してきたことは自分しかわかりません。比べられない事ですからこれがあたり前なんでしょう。所詮なるようにしかならないですもの。


 ただこの娘を障害者にしてしまった事が心残りです。あの頃は今のように情報や知識も無く熱やけいれんが始まった時もお医者さんにも連れて行けず、まさかこんな病気にかかっているとは夢にも思わなかった。本当にこの娘には申し訳ない事をしてしまいました。少し大きくなって三条月岡の養護学校へ相談に行った時は涙があふれてたまりませんでした。もちろん子供の目の前で泣く事はできません、4年間お世話になりなりましたが預けて帰って来る時はあまりにも悲しくて悔しくてどうやって帰ってきたのか」

……言葉につまります。

「一緒に暮らすようになってからは感情が先に出て叱りつけたりはたいたり、まだ私も30代若かったんですね。その若さが邪魔をしてそんな事ばかりこの娘にしてきました。その時はなんとかいい子に育ってと思ってやりましたね。そんな勘違いに気づいたのはもう60も過ぎた頃でしょう。 褒めてあげるとちゃんとするんですよね。おだてる事もありますがしかるより褒める方にようやく気づいたのも私が年をとったからなんでしょう」

……現代の世相事件を見ると幼い子供を親の手であがめてしまうことが報じられます。


「もったいない話です。せっかく生まれてきてくれた命と一緒に生きようとしないのは。きっと親として生きれない、女としてしか生きれないんでしょうね?貧乏はしましたが私はこの娘のお陰で大人(人間)にさせてもらいました。生きていく力をもらい続けていると思います。
 この娘がもし障害者ではなく夫も元気で存命であれば今の私はいないと思います。夢に描くような幸せは私には無くてもあふれるだけの幸せがあります。嫁ぎ先や実家、近所の人達、友人から沢山助けていただきました。いつまで生きられるかはわかりませんがこの娘と一緒にいられる事が今一番幸せです」

……幸せを分け与えるにはまず自分自身が幸せでなければと聞きました。私達は災難や不幸に会わなければあたり前の事が有り難いと気づく事ができないようです。桂子さんの心の器からは、あふれんばかりの幸せが湧き出ていました。

          【聞き手・同朋の会 推進員】